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▼丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士「文学全集を立ちあげる」アメリカ編その2:セレクト商品

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (詳細)
レイモンド カーヴァー(著), Raymond Carver(原著), 村上 春樹(翻訳)

「不思議な『いい感じ』の話」「日常に潜む珠玉のドラマ」「カーヴァー入門として最適」「カーヴァーの空気と、日本語。」「いとおしくなるこの一冊-いつも持ち歩きたい」


グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー) (詳細)
スコット フィッツジェラルド(著), Francis Scott Fitzgerald(原著), 村上 春樹(翻訳), 村上春樹(著)

「内容よりも雰囲気を訳した作品」「傑作!」「最高の曲を、天才がアレンジした音楽」「素晴らしいかもしれない」「フィッツジェラルドの世界を破たんなく日本語で再構築してくれました、という印象」


伝奇集 (岩波文庫)伝奇集 (岩波文庫) (詳細)
J.L. ボルヘス(著), 鼓 直(翻訳)

「ボルヘス印全開の代表作」「この素晴らしい新世界」「落ち穂拾い」「まずこの一冊」「無限の迷宮」


百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967)) (詳細)
ガブリエル ガルシア=マルケス(著), Gabriel Garc´ia M´arquez(原著), 鼓 直(翻訳)

「世界は小説? 物語?」「世界文学史に残る傑作です。」「アゲイン、そしてまた」「愛について」「愛と孤独の迷宮」


この世の王国 (サンリオ文庫)この世の王国 (サンリオ文庫) (詳細)
アレッホ・カルペンティエール(著)


フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ) (詳細)
マリオ バルガス=リョサ(著), Mario Vargas Llosa(原著), 野谷 文昭(翻訳)

「小説の醍醐味が味わえます。」「いつまでもページをめくっていたいと思わせる作品」「抱腹絶倒」


文学全集を立ちあげる文学全集を立ちあげる (詳細)
丸谷 才一(著), 三浦 雅士(著), 鹿島 茂(著)

「文学ファン必読の書」「ドーダ理論による文学者ミシュラン。」「世界文学漫談と日本文学噂話」「面白すぎる与太話:架空だからこそ」「この全集ほんとに出したら、売れなくて文春倒産するよね」


▼クチコミ情報

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選

・「不思議な『いい感じ』の話
たとえば、昨日見た夢の細かい内容は忘れちゃったんだけど、なんとなく言葉では、言い表せない『いい感じ』だけは、ぼんやり残っていて、ベッドの中であれはなんだったっけなーって思うことないですか?

レイモンドカーヴァーの作品を読んだ後は、そんな不思議な『いい感じ』が、ぼんやりーと心の中に残ります。なんだこの奇妙な感じは?って思って、読み返してみても、やっぱり、話としては、大事件とかあんまり起きてないんですよね。

「大聖堂」という話が、最高でした。不思議な幸せに、じんわりとうたれます。

(老婆心ながら)アドバイス:各小説の本文のはじめに、村上春樹の解説がちょこっと載ってるのですが、それを読むと、その見方でしか小説が読めなくなってしまうこともあるので、それを!見ないでまず本文を味わったほうがいいかもしれません。その後、解説を読んだほうが、「一粒で2回おいしい」体験ができます。

・「日常に潜む珠玉のドラマ
カーヴァーの作品は短編小説といっても、あらすじといえるあらすじがない。起承転結といえる起承転結がない。日常生活のちょっとした違和感とか異物感とか、非日常性の部分を、ちゃちゃっと切り取って描き出すのが本当に旨い人だと思う。波乱万丈だけが語るべき人のドラマではないと、日常の中にこそドラマは潜んでいるのだと、教えてくれたのはこの人です。村上春樹さんの訳もすばらしい。

いつ見ても最後に何かじーんとくる感覚が残るのが、「ささやかだけれど、役に立つこと」、「僕が電話をかけている場所」、「大聖堂」です。絶望の中で見出せる小さな小さな希望、というのでしょうか。ほんのわずかな手かがりが、死や別れやディス・コミュニケーションに、未来を切り開く大きな可能性を見せてくれます。

それがね、大仰に描かれてないのが、カーヴァーのすばらしいところ。あくまで、日常という人生の一部分なのです。

・「カーヴァー入門として最適
レイモンド・カーヴァーの秀逸な短編小説をまとめた傑作選.短編以外にもいくつかの詩や,カーヴァーが父親について書いたエッセイなども収められている.「大聖堂」,「ぼくが電話をかけている場所」,「ささやかだけれど役に立つこと」といった短編はもちろんのこと,「使い走り」のようなものも読めて楽しめる一冊だった.カーヴァーの小説は原文を読んでこそ凄さが分かるという人もいますが,村上春樹の訳もまた十二分に楽しめる.

・「カーヴァーの空気と、日本語。
この作家には独特の空気がある。 プロの作家なんだから当たり前だと思うかもしれないがこの作家のすごいところは何でもない情景に潜む悪意や好意などいろいろな感情を巧みに描き出すところだ。 それらが、村上春樹の美しい文体によって綺麗に再現されていると思う。

そう、原文で読むことのできる英国系の人々には悪いが、村上春樹の訳文でカーヴァーを楽しめる日本人は幸せだと思う。そういいきってしまえるほどこの二人のコンビは完璧だ。

・「いとおしくなるこの一冊-いつも持ち歩きたい
短編単行本「ささやかだけれど、役にたつこと」を友達の女の子からプレゼントされ、この表題が僕たちの合言葉になった。"A Small, Good Thing"をこんなに素敵な邦題にした村上春樹が、今回のこの本ではそれぞれの短編・詩に自分の思いを語っている。村上春樹・カーヴァーファンならずとも、この本を手に取れば夢中になること、うけあい。大切にずっととっておきたい一冊です。

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (詳細)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

・「内容よりも雰囲気を訳した作品
私は現在アメリカのロスアンゼルスの高校三年生ですが、此処では「グレート・ギャツビー」は必修科目です。高校三年の英文学のカリキュラムはアメリカ文学史。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、スタインベックと進んでいきますが、その中でも一番重点を置かれるのがこの「グレート・ギャツビー」。私が村上訳を読もうと思ったきっかけは、私の英語の先生が「日本で有名な作家のムラカミという人がギャツビーを訳したが、それはとてもいい訳だとウォールストリート・ジャーナルで読んだ。是非読んでみないか?」と進めてきたからです。

三島由紀夫を英語で読んでもいまいちなように、フィッツジェラルドを日本語で読むなんて!と最初はあまり乗り気ではありませんでしたが、「ノルウェイの森」や「海辺のカフカ」など他の村上さんの作品は愛読していたので、「まったくイメージが違ったとしても、『村上の作品』として読めばいいかな」と思って注文し、読んで見ることにしました。

原文でかなりの衝撃を受けた私ですが、この訳にはさらなる衝撃を受けたといわざるを得ません。訳が見事なのはもちろんですが、あらゆるギャツビー関連のエッセイを授業で読んだ上で、なんともいえない解釈の深さに驚きました。言語が違ってしまうと醸し出す雰囲気も当たり前のように変わるものですが、村上さんの描くギャツビーは、まさしく僕のイメージのギャツビー、いや、アメリカで学ぶフィッツジェラルドの描こうとしたギャツビーそのものなのです。

ただ単に、筋が通るように語句を並べて訳しているのではなく、フィッツジェラルドの原文に等しい「雰囲気」を作り出すように丁寧に言葉を選んでいるのが伝わってきます。もちろん数箇所は「ここは(作り出す雰囲気が)原文の通りじゃないな?」とか「あれ、此処は意味が隠れているはずなのにな?」と思うところもありますが、それ以外は「もしかしてフィッツジェラルドって日本語も書けたのかい?」と思わず唸ってしまうほどの出来です。

ヘミングウェイやカフカの和訳でよく見られるように、訳された作品には「内容」を重んじたものが多いです。つまり、同じストーリーは伝わるのですが、そこから感じられるイメージ、雰囲気、感情の揺らぎなどはなかなか伝わりません。和訳を読んでから原文を読んだり、その逆をしたりすると「あれ?このキャラクターってこんな風に思っていたんだ」と驚いてしまうことが多いです。

しかしこのギャツビー、全てのキャラクターが、原文と同じように考え、行動し、会話や動きからは原文と同じ雰囲気を作り出してくれます。これはもう、神業です。かなりのギャツビーファンとして、映画版も何バージョンか観ましたが、それよりもこちらのほうがより正しく、よりフィッツジェラルドらしいムードを作り上げてくれます。

原文を読んだことある方も、「いい作品と聞いていたけど、結局は訳だからなぁ……」と悩んでいる方にも、是非是非お勧めです。

唯一気になる点は、「Gatsby」は「ギャツビー」ではなくずっと「ギャッツビー」だと思っていたところですかね。人によって発音は違うみたいです。アメリカでは後者が主流。(笑

以上、文学ヲタによるレビューでしたっ。

・「傑作!
語り部である"私"が、はじめてギャツビーを見かけるところ。夏の夜、海の入り江の向こう岸に向かってギャツビーが手を広げて震えている場面。"私"は、彼が見ている方向を見ても、一つの小さな緑色の光が見えるだけで他には何もなかったという下り。素晴らしく印象的で、ギャツビーの性格、そしてフィッツジェラルドという作家の本質を良く表していると思います。失ったものを取り返そうとする焦燥感。上辺だけの嘘。空虚な人間関係。無気力さ。悪。そして激しい恋心。そういった要素が浮かんでは消え、気怠く展開していくこの話を何回読んだのかな。Matthew J. Bruccoliが序文を付けたこの版では、何バージョンかある原稿の中から、フィッツジェラルド自身が最終原稿としてまとめたもの。つまり、彼自身原稿を何度も何度も書き直しているということであり、この本こそ彼の最終原稿であるという訳です。フィッツジェラルドの著作の中では、構成力と登場人物の性格づけという意味においても最高傑作かと思います。大推薦!

・「最高の曲を、天才がアレンジした音楽
言わずと知れた、村上春樹さんによる翻訳の話題作です。村上さんは、これまでにも様々な海外小説(特にアメリカ小説)を翻訳なさって、紹介されていると言うことです。僕はハルキストといかないまでも、村上さんの小説は大好きで、沢山読んでいましたが、正直翻訳された小説は読まないできました。というのは、村上春樹はオリジナルの小説家であって、人の小説を訳すサブの仕事(翻訳者の皆様すみませんm(__)m)には向かないのではないか、村上春樹が訳せばどんな作品も村上節(?)になってしまい、原作を楽しむといった意味では、プロの翻訳家の方のものを読んだほうがいいのではないか、と勝手な独り決めをしていたからです。それでも今回「グレートギャツビー」を読むにあたって、村上訳を選んだのは、同じく村上訳で先行して話題となっていた「キャッチャーインザライ」の訳業より本作のほうが評価が高かったようだからです。(「キャッチャー…」は「これは原書とは違う、村上作品である」との評が目立ちました。)

・「素晴らしいかもしれない
 野崎訳の同書を読んで、なんとなくその素晴らしさをわずかに感じていました。でも、それがどういうことなのか分からない。フィッツジェラルドの来し方に触れるものであるということは間違いない。でも、そこに何があったのだろう?そう思って野崎訳を数回読んだものです。 そして、今回村上春樹訳の本書が出るということで期待して読みました。前々から、村上さんは「グレート・ギャツビー」を翻訳したいと色々な場で言ってましたし、「ノルウェイの森」にも出てきました。それを知っていたので、「いよいよ来たか」という感じでした。 読んだ感想としては野崎訳とは違うものでした。とにかく読みやすい。意外に古い作品なんだってことを再認識させてくれました。今まで、そう思わせなかったのは野崎孝という翻訳家の才能によるものでしょう。 ニック・キャラウェイの立ち位置、ジェイ・ギャツビーの悲哀、すべてが解けるように僕には感じられました。そういうことだったのか・・・と。 同時に野崎訳とのズレもあります。それは致し方ないことです。英語で書かれた文章を完璧に移し変えることなんて不可能なんです。しかも、時代も違う。それに耐えうる作品が名作として残るんですよ。 「グレート・ギャツビー」は劇的な感想は抱けないものだと思います。しかし、じわじわとくる印象があります。読者が経験することによって、「こういうことだったのか」という不思議なシンパシーめいたものを感じることの出来る作品だと思います。想像以上に深い作品だなと改めて思い知りました。 でも、この作品の本質というか、全体的な「これはこういうことだ!」という感想が抱けないんですよね。これは決して悪いことではありません。逆に可能性を感じるくらいです。それは作者、訳者の責任ではなく、読者の責任でしょう。 この作品をちゃんと理解できるようになりたいです。

・「フィッツジェラルドの世界を破たんなく日本語で再構築してくれました、という印象
デイジーの従兄弟でありギャツビーとの仲を取り持つことになるニックというのは、村上春樹さんの小説の主人公のようでしたね。というか、もちろんニックのような男性を日本にもってきて書いたのが村上作品なのかもしれませんが。こんなところに、その感じが出ていると思います。

《人は誰しも自分のことを何かひとつくらいは美徳を備えた存在であると考えるものだ。そして僕の場合はこうだー世間には正直な人間はほとんど見当たらないが、僕はその数少ないうちの一人だ》(p.113)。《人間の同情心には限界がある。都市の明かりが背後に遠ざかるにつれ、彼らのあいだで交わされた壮絶なやりとりもだだん遠いものになっていったし、そのことで僕らは正直なところほっとしていた。三十歳ーそれが約束するのはこれからの孤独な十年間だ。交際する独身の友人のリストは短いものになっていくだろう。情熱を詰めた書類鞄は次第に薄くなり、髪だって乏しくなっていくだろう》(p.247)。  ぼくの読み方が悪いのかもしれませんが、ほのめかしに終わっているウルフシャイムとギャツビーが手がけるううさんくさい仕事について、もう少し、ハッキリとわかるようだったらいいな、と思ったのが多少、不満に残りました。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー) (詳細)

伝奇集 (岩波文庫)

・「ボルヘス印全開の代表作
ボルヘスの最もボルヘスらしさが凝縮された傑作短篇集。とても短い短篇のそれぞれに無限の宇宙が封じ込められている。ボルヘスの幻想はイメージ先行ではなく逆説的なロジックや観念から生まれてくるところに特徴がある。またその恐るべき博識は言うに及ばず、宗教や古典文学の題材が多いことから難解で学者的な印象があるかも知れないが、実はこの人の小説は徹頭徹尾遊びだというところに最大の魅力があると思う。縦横無尽に引用されるテキストやその出典は必ずしも真偽が明らかではないし、お得意の架空の小説の書評その他のメタフィクショナルな仕掛けもきわめて遊戯的。「数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」というボルヘス世界の本衊??はその外観に反してとことん軽やかなのだ。

彼の小説は物語ともエッセーともつかないような体裁をとることが多いが、この短篇集には究極の幻覚的エッセー「トレーン…」からポーを思わせる完璧な小宇宙「円環の廃虚」まで、典型的ボルヘス作品がずらりと並んでいる。すべてのボルヘス作品のメタファーのような「バベルの図書館」やもう一つのボルヘス的テーマである無法者の決闘を描いた「結末」も素晴らしいし、「死とコンパス」の超絶的幾何学ミステリも楽しい。読めば読むほど無限に広がっていく魔法の一冊。

・「この素晴らしい新世界
アルゼンチンが生んだ今世紀最大の幻想作家ボルヘスの 文字通り代表作である自選の短編集。文学の豊富な知識 を背景とし、哲学的宗教的テーマを縦横に援用しながら 彼独自の幻想文学を見事に織り上げている。あまりに 著名な、また至極現代的にインターネット空間の隠喩と 読み取る新たな解釈も新鮮な「バベルの図書館」、

パロディーとしての書評「アルムターシムを求めて」、 物の名前が*存在しない*新たな世界との出会いを探偵 物仕立てで描く(しかも主人公がボルヘス本人である!) 「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」 等全17篇収録。

・「落ち穂拾い
unoさんのレビューで、既にボルヘスの魅力は語り尽くされていそうなので、まだ話題にのぼっていない作品の落ち穂拾い(笑)

ぼくが特に好きなのは、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」と「記憶の人、フネス」

「ドン・キホーテ・・・」は、現代において、ピエール・メナール氏が、ドン・キホーテをもう一度書く、という話。

パロディーにするわけでも、書き写すわけでもなく、一言一句まったく同じドン・キホーテを、新しく書く、わけです。

ただそれだけなんですが、作品の最後に『「キリストのまねび」をジョイスやセリーヌが書いたと思えば、その作品にはまったく新しい意味が生じる』といったことがサラっと書いてあってボルヘスの文学観が鮮やかに浮かび上がる仕掛けになっているわけ。

「記憶の人、フネス」は、一転して笑える悲劇。

落ち葉一枚一枚の葉脈の模様まで鮮明に記憶して忘れることができないフネス氏のお話。このフネス氏、記憶力が良すぎて、昨日のAさんと今日のAさんを別人としてしか認識できない。皺の本数とかが違うからフネス氏にとってはまったくの別人なわけです。もちろん、深読みしたいひとは、人間のパターン認識の精妙さとかに感じ入ったりもします。

などなど、ボルヘスの短編はどれもこれも何度でも読み返す価値のある傑作ぞろいなので、難解そうだと敬遠せずに、是非。

・「まずこの一冊
ボルヘスといえばまずこの一冊。値段もお手ごろで収録されている作品も粒ぞろいです。なかでも「死とコンパス」は必読。ミステリー仕立ての味わい深い一品です。

・「無限の迷宮
おそらくこの作家の短編集の中では一番、密度が濃い短編集だと思います。一つ一つの短編が非常によくできていて何度も読むとさらに理解や発見が広がり一冊だけでとても長く楽しめます。この作家の短編集は不死や連続といった無限性がテーマになっている作品が多いです。ひとことであらわすと迷宮といわれる所以でしょう。

伝奇集 (岩波文庫) (詳細)

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

・「世界は小説? 物語?
ああ、読んでよかった。有名な『百年の孤独』。ノーベル賞が、「世界的名作」という言葉が、重い。そんなわけで、読んだ人々の話を憎らしく思いながら、黙って聞いていたけれど。読み終わった今は、言える。これは、世界的名作の前に、最高のエンターテインメントだ。全然、重くない。楽しい。面白い。で、ついでになんだか世界の秘密に触ったような気になれる、すごい本だ。

とはいえ、正直、読み始めはかなりつらかった。

登場人物の名前が、ややこしい。お父さんのホセ・アルカディオ・ブエンディアの息子が、ホセ・アルカディオと、アウレリャノ・ブエンディア。そのまた息子が、アルカディオと、アウレリャノ・ホセ。ホセ・アルカディオ・セグンドとか、アウレリャノ・セグンドとかいう人もいた。こんな具合に、ブエンディアさんのお家は、こちらの都合もおかまいなしに、産まれた子供にどんどんおんなじ名前をつけていく。死んだ人も、普通にその辺をうろうろしているので、ますますわかりづらい。

時間の経過が、わかりにくい。時系列順に進んでくれない。この物語は、人だったり、出来事だったりを中心とした、エピソードが積み重なって出来ている。あるエピソードの途中で、「これはだれだれがなになにをしていた頃のことだ」、とか出てきて、別のエピソードと重なり合うことで積み重なっていく。気がつくと、いつの間にか時間が少しずつ進んでいるのだ。年号とか、基準になるものは全然でてこない。

ああ、もう! と思っているうちに、100ページを過ぎたあたりから、そんなことを気にしなくなりだす。すると、もう、あっという間。というのも、だんだん、ルールが、体で分かってくるのだ。

この本、「ガルシア=マルケス全小説」の中の一冊だけど、小説ではないと思う。物語だ。エピソードで世界をとらえるやり方は,小説よりも、物語のルールだ。ここでは、聞き手を飽きさせないことが何より優先される。流れを遮るものは、省略される。だから、正確な時間なんかはどうでもいいものなのだ。そして物語は、聞くものを飽きさせない細かいディテールで出来ている。だから、聞いたそばから忘れられていく。

きっと、人間は、小説が出来るずっと前から、こうやって、物語の目で世界を見てきたのだ。今の僕らは、小説のものの見方で世界を見てしまっていて、だから、家系図なんかを欲しがってしまう。物語には、こんなものはいらない。家系図は、この本を小説にしてしまうと思う。

物語は蜃気楼で、聞き終わったら、忘れられるもの。それが、寂しい。本当に、本を開いてマコンドにいる間は、それこそ自分が読者であることすら忘れてしまうのに。

でも、僕らの中には、漠然とした物語の輪郭が残る。世界を見る物語の目が残る。それが、本を閉じた今でも、もぞもぞうごめく。それが、新しい物語の芽になる。僕は、もう、間違いなくこの物語から産まれただろう物語を、いくつも思い出している。

・「世界文学史に残る傑作です。
 脱私小説という問題をいつまでも引き続けている日本文学とは対照的に、南米ではこんな物語が生みだされてるのです。あるひとつの村の一家の百年の興亡史ですが、骨太の物語なのに読みやすいのです。この読みやすさは異常だと思われますが、ガルシア・マルケスはおそらく読者の読むスピードを底上げさせるように文章を書いているんでしょう。それは物語の特性を考えてのことだと思います。 保坂和志は、百年の孤独ほど「小説というのは読んでいるその瞬間にしかその実体がない」ことをわからせてくれる小説はない、と言っています(ただし、家系図なしなら)。カフカの長編小説でもそうですが、怒涛のようなエピソードが壊れたピッチングマシーンから放たれるボールのようにぼんぼん投げこまれてきます。私たちはそれを読み、楽しみ、そして次の瞬間には忘れます。私たちは次のボールをキャッチしなくてはいけないからです。私はこの「忘れる」ということが、この小説のいちばん大事なところではないのかと思います。 この小説では、とにかく何もかもを忘れていきます。登場人物の名前がほとんど同じですので、誰が誰だか忘れます。誰がどんなことをして、そして死んでいったか、忘れます。私は読み終わったばかりなのですが、もう何が起こったのか忘れています。彼ら一族は小説のなかの世界でも、そして私たちからも忘れられます。 そして、私はその忘れられる過程(一族が滅びていく過程)にこそ、ガルシア・マルケスがテーマとした愛が見え隠れしているようにしか思えないのです…。

・「アゲイン、そしてまた
百年という歳月をかけて、人間は何を成しえるか。

20世紀と21世紀を比べると、あまりにも多くのことが変化、進歩したように思える。確かに、技術や文明は、百年前とは比べ物にならない。しかし、人間と、その心はどうだろうか。昔の小説を読んで人々が感動するように、歴史の中で同じ過ちが何度も繰り返されるように、不可逆的・直線的な文明とは違い、人と歴史は円環のようにぐるぐると回っている。

ブエンディア家は、百年かけて孤独の円環から抜け出す。メルキアデスの古文書の秘密を知るまで、愛によって子供が生まれるまで、なんと百年の歳月が必要だった。アゲイン、そしてまたアゲインと、まるでゲームのリセットボタンのように、符号がかちりとそろうまで、時間の円環は回り続ける。

多くの知識人や著名人が、この本を傑作と呼ぶのもうなずける。とにかくスケールがあまりにも大きい。目がくらむ。歴史は繰り返し、人は忘れていき、栄えるものは滅ぶ。そんな時間の物語は、読んでいる最中よりもむしろ、読んだ後にじわりと重さを増していく。

・「愛について
コロンビアの架空の開拓村における名家一族の物語。近代化を迎えた村の繁栄を背景にこの一族は豊かで子沢山だった時期もある。が、タイトルが示す通り、なぜか徹底して愛に恵まれない。100年以上かけて代替わりも数世代進み、やっと愛によって結ばれた夫婦に子供が生まれる「その時」。この最後数ページがクライマックスなんですが、そこまで延々400ページに渡って、時間と運命の円環構造の下で何人もの一族の人間(=みんな似たような名前!)が同じような悲喜劇的エピソードを紡いでいくんだけど、クライマックスに入って怒涛の速さで物語が収束していきます。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、このクライマックスの速度と収束感は、そこに至るまでの永久に続くんじゃないかと錯覚してしまうようなエピソードの集積の後だけに、かなり味わい深いです。

それにしても、各エピソードはユーモアに溢れてるのに、全部読み終わった時に、何でこんなに寂しい気持ちになるんだろう。

・「愛と孤独の迷宮
 久しぶりに物語に呑み込まれました。  蜃気楼の村マコンドの百年の歴史、開拓、隆盛、衰退、滅亡を開拓者のブエンディア一族を中心に書いています。一族の一人一人に受け継がれ巡る孤独、それぞれが抱える人間の葛藤を味わいつくし、読み終わったときには少しばかり呆けてしまいました。また文章のそこここから感じとれる南国特有の熱さや妖しさ、生命力と退廃がマコンドと一族の趨勢に色と熱気を添えています。  とにかく濃い。物語の焦点があちらこちらに飛んだりするし、外国文学に慣れていないと読みにくい部分もある。しかし一度読み始めると途中で止めることができない引力があります。ガルシア=マルケスにとっての「孤独」とは、「愛」とは。なんとなくわかったような、わからないような。一族の家系図をみて唸っています。

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967)) (詳細)

フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)

・「小説の醍醐味が味わえます。
お腹一杯になります。交互に語られる現実世界とシナリオの世界は、スマートさと猥雑さが表裏となって、現実世界がシナリオ世界に歩調をあわせるように読み進むにつれて、諧謔の度合いを増してゆく。う~ん、ウマすぎる。ほとんどノンフィクションだという叔母との恋の逃避行が、驚くやら羨ましいやら。シナリオ世界のおもしろさも格別で、毎回趣向の違う話がかなり魅力的に描かれる。良質の短編を、大盤振る舞いって感じで、ほんとご馳走様なのだ。それぞれラジオドラマ用に描かれたものだから、毎回先行きが気になる一番いいところで終わってるのが、またいい。登場人物たちも個性的でひとクセもふたクセもある人ばかり。豊穣といっていい小説の醍醐味が味わえます。おすすめですね。

・「いつまでもページをめくっていたいと思わせる作品
 舞台はペルーの首都リマ。主人公は、大学生でありながらラジオ局でのバイトに励む作家志望の青年。この青年と義理の叔母との恋愛・結婚騒動、職場仲間達との交流が小説の軸である。ところがこの青春小説の軸に、なぜか主人公のバイト先の系列局で流れる"ラジオ劇場"の9つの物語が挟み込まれる構成になっている。つまり主人公周辺の現実の物語と、ラジオ劇場という創作の物語が、章ごとに交互に展開する仕掛けである。 "ラジオ劇場"の台本を手掛けるのはボリビアからやって来た大作家先生ペドロ・カマーチョ。主人公の青年はカマーチョを評して言う。"一方では作家のパロディーでありながら、同時に、自分の職業に捧げた生活、そしてそのなかで産み出された作品によって、ペルーで唯一作家と呼ぶにふさわしい人物"。カマーチョは登場人物に成りきるためにコスプレをして執筆するほどの"熱狂的専業作家"であり、主人公(=著者)の作家の理想像でもあるだろう。 カマーチョの紡ぎだす物語の数々は、当初、聴取者の圧倒的な支持を得るが、やがて、日に何本もの"ラジオ劇場"を手掛けるうちに、登場人物が複数の物語にまたがって出てきたり、死んだはずの人物が役どころを変えて生き返ったりと、破綻をきたしてしまう。カマーチョはついには精神病院送りになってしまうのだ。最終章は、現実の章だが、10数年が経ち、主人公は作家として大成する一方、カマーチョは三流雑誌の使いっ走りに身を落としている。つまりカマーチョ自身も彼の描く"ラジオ劇場"の登場人物さながら、役どころを変えてしまったのだ。  本作は、自伝的手法、ポストモダン的な手法で、著者自身の作家論、文学への思いを込めた作品だと思う。一方、読み手としては長編青春小説とラジオ劇場という2つの異なった物語世界を堪能できる。文学の愉しみに浸りながら、いつまでもページをめくっていたいと思わせる。1977年の作品を2004年にしか読めない状況に苛立ちを感じながらも、訳者に敬意を表したい。いずれにしても一気に読んでしまうのはもったいない作品である。

・「抱腹絶倒
ひさしぶりに長篇小説の醍醐味を味わわせてもらいました。内容は、著者リョサによる一種の青春小説です。作中人物が書いたラジオドラマのシナリオを一章ごとに話の本文と交互に挿入するという手法が物語世界に奥行きを与えており、さながらホフマンの「牡猫ムル」やスターンの「トリストラム・シャンディ」を髣髴とさせるものがあります。狂的な笑いのセンスも冴えており、ほとんど全盛期の筒井康隆と通じるものを感じました。語り手の「ぼく」(リョサ)が終始尊敬の対象として描いていたシナリオライター(ペドロ・カマーチョ)が、最終章に至って急に卑小な存在として浮かび上がる描写の鮮やかさも見事という他ありません。惜しいことに訳文が今ひとつこなれていないので、星一つ減点することにしました。

フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ) (詳細)

文学全集を立ちあげる

・「文学ファン必読の書
ほんとに楽しい文学談義。架空の文学全集(そのうち現実になるかも?)の作者・作品撰述について、文学フリークスのお三方があーでもない、こーでもないと語り合う、という趣旨だが、いやそれぞれの意見が微妙に食い違いつつ、しかしまあ、この辺で手を打つのが妥当だろう、というような感じで現代人が読める最高レベルの文学作品がひとつひとつ厳選されて行く過程がすごぶるおもしろい。作家ゴシップ・ネタも多く、小説好きなら確実に単純に楽しみながら読める本だと思うが、古典のブックガイドとしても役に立つ。常に文学史(研究)の流れが念頭におかれているのはもちろんだが、新たな枠組を提示することも試みられており、また、これまでの文学全集にありがちだった「求道」を避けてエンタメ的・サブカル的なものを評価しようとか、最近の若い作家は読書量が足りないせいですぐに消えるので、文学的テクニックの多様性も把握できるような構成にしようとか、そうした意識も強い。これなら実際に読んでみたいなあ、と思わせてくれる。ちなみに個人的には、トーマス・マンをめぐる会話が一番好きだ。マンを特に評価しないフランスびいきの鹿島さん対して、三浦さんが自説を頑固に主張する。鹿島「「魔の山」だけで、一巻でいいんじゃないの?」三浦「とんでもない。「ワイマルのロッテ」とか、入れたいのはいっぱいある。…」鹿島「そうかなあ?」三浦「そうだよ、何言ってんの。…ドイツ文学をなめちゃいけない(笑)。やっぱりドイツ文学に関してね、ちょっと辛すぎるよ。フランス文学三十巻だよ。」鹿島「わかった、わかった(笑)。…」とかまあ、省略しすぎておもしろみが伝わりにくいが、こういう客観的な評価と個人的な趣味のまじりあいにもとづく意見の対立が随所に見られて、これが、とてもいい。

・「ドーダ理論による文学者ミシュラン。
遠慮せずに本音で話し合っているところが面白い。とにかく志賀直哉神話が諸悪の根源らしい。批判すると文壇内で冷遇された。本書で志賀の弟子筋は評価されてない。埴谷雄高はドストエフスキーを、中村真一郎はプルーストを、野間宏はバルザックを誤読している。そのうえ第一次戦後派は力量もないのにやたら大作をつくろうとした。中村光夫も福田恒存も山本健吉も大した存在ではない。河上徹太郎は要らぬ。吉本隆明は出てきたらパッと後回しにしよう。安部公房、遠藤周作、小林秀雄は二分の一巻で十分。秀雄は三人ともなんだかよくわからない。鴎外と並ぶ陽ドーダ(いつも「俺が!俺が!」の人。「ドーダ、俺はこんなに偉いんだぞ。」というあからさまな自己肯定人。ポール・マッカートニー的人物のことであろう。)の典型。岡本かの子は死後書いた作品がよい。三島由紀夫にはロジックがなく日本的な意味での修辞のみある。戯曲のセリフは上手い。他の劇作家はセリフすらできてない。マチネ・ポエティックの連中は星菫組であり少女マンガ。丹羽文雄はあまりに無思想。井上靖と埴谷雄高はお隣さんとしては好い人だったろう。ハッハッハ。司馬遼太郎はチャンバラ場面がとりえ。第三の新人の作品の中には語るに足るものもなくはない。大岡昇平の戦記物にはリンチ・シーンがないところがよい。といった具合に三人で過去の有名作家達をリンチして傷口に塩をぬり込んでいる。高く評価されているのは、漱石、朔太郎、茂吉、潤一郎、安吾など。牧野信一と安部公房の評価が低すぎると思う。横光の「機械」は傑作だろう。19世紀ロシア文学をあまり評価しない珍しい人達だ。日本の私小説も過小評価されている。私は求道的な小説も暗くて社会性のない私小説もけっこう好きだ。

・「世界文学漫談と日本文学噂話
台詞の上に名前が書かれていなくても誰が発言したかわかるほど個性的な面々による文学漫談。文学者としてビジョンを打ち出す丸谷才一に、どこか投げ遣りな鹿島茂。批評家としての主張を通そうとする三浦雅士。特に三浦雅士が、「『月夜だけとは限らない』と言われますよ、きっと」などと脅したりすかしたりしながら二人を説得し、主張が通ると「ありがとうございます」などと礼をいうところなど面白い。結局、求道的大河小説のない世界文学全集をつくろうという方針通り『ジャン・クリストフ』も『チボー家』もない原案が出来上がる。フランス文学32巻、ロシア文学10巻、ドイツ文学13巻。中国文学に至っては5巻。

日本文学は、「いま読んで面白いこと」を最大の基準に、なんと『古事記』も親鸞も入った全集が出来上がっていく。しかも芥川が落選しそうになるが何とか救われる。でも『真珠夫人』の菊池寛と抱き合わせ。日本文学は当然時代が下れば下るほど噂話になり、極め付けが「ドーダ」。これは東海林さだお氏の「ドーダ学」を拝借して「ドーダ、俺はこんなにエライんだぞ」と自慢することを意味し、森鴎外や幸田露伴は「ドーダ」の典型と決め付けられる。さらに、その「ドーダ」を「俺が俺が」というあからさまな自己肯定の「陽ドーダ」と装われた謙遜である「陰ドーダ」に分類し、鴎外や子規、それに小林秀雄は陽ドーダ、露伴は陰ドーダと言いたい放題。野間宏などはスピーチが長い、節度がないとまで悪口を言われる。日本文学編は芥川を救った司会の湯川豊がいい味を出している。

贔屓の作家が評価されると自分の鑑識眼が褒められたかのような気分になり、逆に分量が減らされると腹が立ち、心の中で反論を始めてしまう。前から気になっていたけれど読んでいない作家や作品名の解説を読んで、読んでみたいと意欲を掻き立てられた。全集の巻立てはともかく楽しく読める。

・「面白すぎる与太話:架空だからこそ
丸谷才一大先生を中心として、世界文学133冊、日本文学古典88冊、近代84冊の全305冊の架空に及ぶ大全集の内容を決定していく鼎談(日本文学は実際には四人だけど)。勿論みんな勝手なことを言いながらやっていくわけで、その談義そのものがまず面白い。どうせ架空なのだし売れ行きを気にすることもないし、歯に衣を着せずというか、よく考えると悪口雑言集だ。そしてもうひとつ、自分が如何に読んでいないかということの再確認と、どのようにお三方に評価されているかとは関わりなく興味を惹かれる作品との出会いの糸口となりうるという意味で、意義深い本でもある。正直、自分の中での文学評価とは相容れないものがあまりにも多く、実現したとしても全部そろえることはなかろうが・・世の人々が文学から遠ざかりつつある現在、こういう「文学への勧誘」もあり、ということですね。ただ、話題づくりのためかちょっとタメニスル的な議論も多いなあと感じるので、とりあえず星四つにした。

・「この全集ほんとに出したら、売れなくて文春倒産するよね
 鹿島の「いまの日本の小説を書きたいという連中はひどくて、無知であることを少しも恥ずかしいと思っていない」という発言を受けて、三浦はこう答える。「いまの日本では音楽家、小説家だけじゃなくて、政治家にしても、官僚にしても、教養というものが必要とされないんだね」。 うん、今の時代、誰も教養を求めていないし、求められることもない。教養ってのは一種のたしなみというか余裕というか人間の幅というか大いなる無駄というか...つまり、実利的なもんじゃないし目的指向なもんじゃないし、即、金には結びつかない。超資本主義で世知辛い今の時代、教養とかインテリの価値は風前の灯である。一方で、トリビアルな知識や専門家という名のオタク、空気を読むのだけはうまいコメンテーターなんてのは重宝がられる、そんな時代だ。 まあ、この三人の膨大な読書量、教養には平伏するしかないって思うのは古い人間で、今の人には単なる読書オタクにしか映らないだろう。だけど、体系としての教養を疎んじて、パーツとしての情報を重宝がるなんて、まさに木を見て森を見ないってことだ。一般教養でなしにトリビアルな知識、ハイカルチャー無しにサブカル・オンリーって時代はやっぱ、薄っぺらくって危うくって信用ならない。行き過ぎたポストモダンの悪弊だよな。 やっぱ、この本読んで、“恥ずかしい”って僕は思いたい。それにしても、この鼎談は、三浦・先導役、鹿島・つっこみ、丸谷・ご意見番って役割分担も明確で面白い(日本篇は、影の編集者、湯川豊氏の仕切りが絶妙)。この三人が、“いま基準”で古典を総括する(芥川も堀辰雄も三島も、あまりいらない...)ってのは意味あると思うけど、これほんとに出したら、売れなくて文春倒産するよね。 最後に、読んだ人への問い。この三人は“陽ドーダ”なのか“陰ドーダ”なのか。“ドーダ”なのは確かだし、“ドーダ”も必要よ!って本ではある。

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