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▼主体の外部。開かれた共同体。:セレクト商品

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考 (詳細)
ジャン=リュック ナンシー(著), 西谷 修(翻訳), 安原 伸一朗(翻訳)

「「共同体」から、共同体へ」


明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) (詳細)
モーリス ブランショ(著), Maurice Blanchot(原著), 西谷 修(翻訳)

「バタイユの権力論は今なお新鮮さを失わない」「連帯の可能性」「現在に残された共同体の可能性とは」「ブランショ、バタイユ、西谷修の共著。」


開かれ―人間と動物開かれ―人間と動物 (詳細)
ジョルジョ アガンベン(著), Giorgio Agamben(原著), 岡田 温司(翻訳), 多賀 健太郎(翻訳)

「アガンベンの問題圏を齧れる小さな好著」「ハイデガーから無為へ。」「愛おしい本」「枯れてきた味わい」


何も共有していない者たちの共同体何も共有していない者たちの共同体 (詳細)
アルフォンソ・リンギス(著)

「世界のざわめき」「合理的・理性的「でないもの」に向けて」


他者と共同体 (ポイエーシス叢書)他者と共同体 (ポイエーシス叢書) (詳細)
湯浅 博雄(著)


バタイユ (学術文庫)バタイユ (学術文庫) (詳細)
湯浅 博雄(著)

「宗教批判、言葉(表現)への意志」「文章の硬さだけが残念。」


スピノザ共同性のポリティクススピノザ共同性のポリティクス (詳細)
浅野 俊哉(著)

「現代思想・未来の思想としてのスピノザ」「〈喜び〉の重要性」


不死のワンダーランド不死のワンダーランド (詳細)
西谷 修(著)


戦争と暴力の系譜学―“閉じられた国民=主体”を超えるために戦争と暴力の系譜学―“閉じられた国民=主体”を超えるために (詳細)
高橋 順一(著)


デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス) (詳細)
斎藤 慶典(著)

「なかなか優れた本です」「デリダは必要?」「この本から、とりあえず」「読みにくい」「空疎」


ドゥルーズ―解けない問いを生きる (シリーズ・哲学のエッセンス)ドゥルーズ―解けない問いを生きる (シリーズ・哲学のエッセンス) (詳細)
檜垣 立哉(著)

「ついに見つけたドゥルーズの入門書」「ドゥルーズのメロディー」「「問題に食い下がる」著者の切実さ」「「欲望する機械」「ノマドロジー」なしのドゥールーズ」「ベルクソン的」


西田幾多郎の生命哲学 (講談社現代新書)西田幾多郎の生命哲学 (講談社現代新書) (詳細)
檜垣 立哉(著)

「今日の西田哲学」


オートポイエーシス―第三世代システムオートポイエーシス―第三世代システム (詳細)
河本 英夫(著)

「心的システムという究極へ向かって」「作動と構造と産出的作動」


▼クチコミ情報

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

・「「共同体」から、共同体へ
我々は、「共同体」という言葉に、何かを共有していたり、一緒に何かを作り出すものといったイメージ持っていると思います。

しかしナンシーはそのような「共同体」には殆ど価値が無いと言います。それは「共同体」といったものが主体の「営為」によって作り出されたものだからです。

それに対して、ナンシーの言う共同体は主体の無い「無為」の状態によって「経験」され「分有」されるものです。

この著書では、バタイユの内的体験を手掛かりに議論が進められていきます。そして、バタイユの経験が一見個別的なものに見えてもその自らの有限性によって共同体の経験をしていることを明らかにします。

意識的、無意識的、あるいは歴史的に引かれた線から内側が「共同体」だと思っているのが現在の我々のあり方だと思いますが、そのような「共同体」を抜け出て、共同体へ進む可能性を示唆しているように感じました。

難解な書物ですが、西谷修氏の解説が大変分かりやすく理解を助けてくれますのでそこから読むのも一つの手かもしれません。

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考 (詳細)

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

・「バタイユの権力論は今なお新鮮さを失わない
すでに常識となっている専門家には邪魔かもしれませんが、初心者にとっては西谷修の解説は読んで得るものが大きくありました。ブランショはフーコーについて『大いなる封じ込め』という論文を書いている頭の切れる人、と言うことは知っておりましたが、本書を通じて、ブランショが曾て極右のジャーナリズムに立って左翼のヘーゲル的止揚に基づく国家の全体主義を批判していたということを知りました。そして同時期にバタイユは極左の秘密結社「コントル・アタック」で資本主義社会の特にナチズムに見られる全体主義を鋭く糾弾していました。この正反対の活動を行っていたふたりが実は親友同志であり、ともに同じ課題、つまり共同体と権力について、思いを繞らしていたことは興味深い事実です。そしてバタイユが秘密結社「アセファル」で実現し得なかった「権力なき共同体」の探求という課題は、現在まで手つかずのまま放り出されています。だれかが、これをやらねばなりませんね。

・「連帯の可能性
共同体をこれほど刺激的に語れるとは。共産主義とファシズムを「悪しき共同体」として否定するのは常道ですが、「その後」は今もって明確ではありません。西谷修氏の注と解説を合わせて読むと、今もってアクチュアルな思想的課題への見取り図として有効です。

現在の、一方における極度に孤立した人間群と、他方における原理主義的な人間群を、ともに批判する「否定の共同体」「友愛」の連帯。共同体にならずに共同することの困難と可能性。すばらしい。「美しい国」にたまたま住んでしまっている人はもっと読むべき本です。なにせこの国の近代以降の思想は常に「共同体」の位置づけをめぐってブランショがともに批判している二つの間を揺れており、さらにその「揺れ」に可能性を見出ししまうという、とんでもないことになっていますから。

やっぱり「外」を考えることは大事です。読み方としてフーコーからブランショに来た私は、次はバタイユに行こうと思っています。

・「現在に残された共同体の可能性とは
少しまえに試みられた具体的な共同体を求めた運動はいろいろな形で潰えていった今日、我々にはどういった共同体が残されているかということをバタイユを紐解きつつ語る。「共同体をもたない人々の共同体、否定的共同体」というバタイユの概念をブランショが提示する。そこには人間にはどんな可能性が残されているかということを純粋にたどる試みがあり、ブランショの言葉はひとつひとつ誠実に書かれている印象を受けた。後半の西谷修の解説もわかりやすく、また全体像をうまくとらえている。ブランショを読むのはこれがはじめてなのだが、ブランショを知るための重要な一冊であり、なおかつ手軽に購入できるにもかかわらず得るものも多い一冊であり、お薦めだと思う。

・「ブランショ、バタイユ、西谷修の共著。
 晩年のブランショが、ジャン=リュック・ナンシー「無為の共同体」に触発されて重たい筆をとった小著。その背景にはナンシーの本で分析の対象となっている、盟友バタイユの共同体論に注釈をつけるという目的もあったらしい。

 ブランショは右翼の政治ジャーナリストとして出発し、文学に転向した後はほとんど政治的な発言をしてこなかった。そのブランショの貴重な政治的傾向の強い書なのだが、もちろんブランショのことだから簡単に「政治的」と片づけるわけにはいかないが。

 また、本書はバタイユの共同体論とデュラスの小説論の二編から構成されているが、テクストの実に半分近くを西谷修による訳注、あとがき、付録が占めている。そういう意味では、この翻訳書は西谷とブランショの共著といった趣が深い。

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) (詳細)

開かれ―人間と動物

・「アガンベンの問題圏を齧れる小さな好著
 近年書肆の店頭に(ジジェクに次いで)地歩を固めつつあるアガンベン。どこから手に取ったらいいか…という方にお薦めです。大変細かく章立てされており、講演録のテンポで、非常に読みやすい。哲学の門外漢でも大丈夫だし、薄いし… コジェーヴの「歴史以後の人間」(バタイユの「残余としての否定性」との対比)が問いの導入となり、アガンベンが「人類学機械」と呼ぶ古来の「人間」観史を手短に叙述します。(このへん見事です。トマス・アクィナス、リンネ、ピコ・デラ・ミランドラ、ヘッケルら。) 中盤は、ハイデガーの有名な「動物は世界が乏しい/人間は世界を形成する」の存在構造[の相差]についての執拗な議論を辿り、スリリングです(タイトルの「開かれ」はハイデガーのLichtung概念のこと。) そしてアガンベンの問題圏の只中へ。生政治的な「人類学機械」を停止させるイメージとしてベンヤミンやティツァーノのタブローにそくして「性的充足」が持ち出されるのですが、議論の手並みが鮮やかで、充実感が味わえました。 わたしはこうした方面は疎いただの動物好きのサラリーマンですが、たまたま人間と動物という問いの立て方に興味を持って手に取り、大収穫でした。お薦めできます。薄いので図書館で借りて読むのにも好適です。 (ただし、ハイデガーアレルギーの方にはお薦めできません。)

・「ハイデガーから無為へ。
■「人間性」とはなにか? それは動物的ではないことであると思われているとすれば、では、人間と動物との違いはいったいどこにあるのか?

■「歴史の終焉」の後の世界が、コジェーヴ的な世界になるのか(アガンベンは否定的)。またビシャが言うように、人間には「2匹の動物」が棲んでいるのを検討しつつ、アガンベンはユクスキュルをトランジットしながらハイデガーへと向かう。

■人間には倦怠があるが(現存在だから)、動物には倦怠はない。「ただ生きている」だけだからだ(剥き出しの生)。そして、生の宙づりとしての「開かれ」が、人間を動物から隔てているとする。この点をアガンベンはハイデガーの読解から導く。

■「人間の終わり」が来てしまったとすれば、どのような可能態がありえるのかを探求。広大なテーマだが、ハイデガーを核にしたことで思考ルートのひとつができあがりつつあるのではないか? 小著ではあるがきわめて濃密。

・「愛おしい本
「涜神」同様の愛おしい小さな本です。「最後の審判」のあと、ごちそう(ヒュビモスとレヴァイアタン)を饗する善人(よきひと)の顔はどんな顔?という不思議なイメージから、一気にゾーエとビオスの生ー政治論に引き込まれます。ハイデガー嫌いは読まない方が良いかもしれませんが(私も嫌いですが)、ハイデガー知らないひとは全然読めます。装幀が美しい。

・「枯れてきた味わい
人間を霊長目に分類したリンネ、環境世界の概念を提示したユクスキュルなど、人間を動物とかんがえるうえでの「先人」たちの思想を展望しながら、同時にトマス、ティツィアーノ、グノーシスのバシリデスなどをも検討する。そうして周辺知識を動員してみじかい一章ずつで思考をつむぐ。1942年生まれのアガンベンも、もう六十歳近い。おちついた射程のとりかたに、このひとがものを考えてきた時間の長さ、思考の歳月の長さを感じた。問題をつきつめるには角度がやや散漫という評価もあるかもしれないが、枯れてきた味わいを寛いで愉しむことができる。

開かれ―人間と動物 (詳細)

何も共有していない者たちの共同体

・「世界のざわめき
ここ最近読んだ中ではもっとも夢中になって一気に読みきった書物である。例えば死を迎える他者を前にして一緒にいるとはどういうことか、など身近に遭遇する場について我々が通常抱いている考えとは異なる考えを提示する。しかしながらそれらはどれも我々がうすうすそうと感じているものばかりなのである。言葉を使って考える行為により漏れ落ちてしまうさまざまな「noise」を復古しようとする試み。言葉で考えるのでは汲み尽くせない「世界のざわめき」に耳を傾ける試み。彼は言葉を「もともとものを讃えて力を与えるために発したもの」としているが、彼自身の言葉がさまざまな感慨を我々に呼び覚まし、力を与えている。時々論理だけが突っ走ることもあるが、後で読み返してみて筋が通っている。こむつかしい思想書というよりさまざまな感慨を我々に提示してくれる詩のような書物である。その一方で論理の飛躍を排し、一つ一つ丁寧に説明する姿勢も兼ね備えている。そして何よりも説得力があり、それは世界各地にしっかりと身を置きものを感じたリンギスならではのものなのだろう。書物の中にはいくつも心をうたれるフレーズがある。挿絵として入っている彼自身が撮影した写真のメッセージもすばらしい。

・「合理的・理性的「でないもの」に向けて
著者は、メルロ=ポンティやレヴィナスの英訳者として知られたアメリカの哲学者である。そこからも予想されるとおり、本文はなかなか難解であり、読み進めるにはそれなりの忍耐とアタマとを要する。ただ、幸いなことに巻末に2本の解説と「訳者あとがき」が収録されていて、これらを参考にすることができる(このうち、田崎英明の解説はこの人らしく訳のわからないものであり、堀田義太郎のそれは若々しく実に律儀なものである)。

リンギスがこの本の中で語っているのは、合理的な共同体を撹乱する「もう一つ別の共同体」であり、合理的理性によっては消去されてしまっているノイズであり、さらには合理的主体の中に侵入してくる根源的な他者である。近代的・合理的・理性的・啓蒙的である限り取りこぼさざるを得ないこうした諸々を掬い上げようとするリンギスの営みは、死や死者についてもそもそと思索しようとしている私にとって充分に刺激的であった。その内容を咀嚼しきったとはとても言えないが、もうしばらく反芻してみたい。

何も共有していない者たちの共同体 (詳細)

バタイユ (学術文庫)

・「宗教批判、言葉(表現)への意志
 他の「現代思想の冒険者たち」シリーズが普及版として再版されているのに対し、本書は全面改稿により大幅に拡充されている。とは言え晦渋になったのではない。言い難きもの、これまでに表現されようとしたこともないことどもを表現しようとした作家以上の思想家バタイユを血肉化して読み直し読み砕き読み切った一書になっている。著者は本文庫以前に書き下ろしでちくま学芸文庫に『聖なるものと〈永劫回帰〉 バタイユ・ブランショ・デリダから発して』を上梓している。その後に『バタイユ』を書き改めたのである。難解そうに見えるのは活字が少々小さく組まれているからで、年輩の読者には少し不親切かも知れない。 ところで、宗教は言い難きものを神と表現してきた。宗教や政治が現実の運動である以上それは如何様にもずれていると言え、言い難きものを実際は表現できていない。このことは普通には宗教批判、政治批判という現実の批判となるが、その批判の本質は、実は宗教が神として政治が王として表現しようとしたものは実際に本当には何だったのか、という問いが極限まで問い続けられていないことの告発なのである。言い得ぬものを言い得ぬものとして諦めてしまったら思想の言葉など必要ない。意識の社会化により表現せねばならないのに表現できないものが後からじわじわと現実化したのではない。唯物論者の言うように神は後から人間が作り出したものではない。 バタイユが21世紀の宗教、特に例えばイスラムにどう言及できるか、そして言い難きものを言い難きものとして何とか表現しようとした思想の残骸を結晶としてどう継ぎ往くか、このことが本書において圧倒的な情熱で問われたことなのである。

・「文章の硬さだけが残念。
「現代思想の冒険者たち」シリーズの一つが、学術文庫入り。 「現代思想の冒険者たち」シリーズがセレクト版で新たに刊行されていってる中で、この「バタイユ」のみが学術文庫入りしたのは、何か意味があるんだろうか・・・・・ 読むほうにしては、安くなるからいいけど。

全部で400ページと、かなり内容は濃い。 巻末にキーワード解説もついているし、主要著作解題や、読書案内まで。 <内的体験>にしろ、<非-知>にしろ、<異質性>にしろ、本来なら言語で表現することができない内容のことを扱うバタイユを、さらに言葉で説明するのは相当難しいはずなのに、わかりやすいし、良い本だと思う。 ただ、硬い。文章が。 もっともっと面白くかけたのではないか。 その辺がちょっとだけ残念。

バタイユ (学術文庫) (詳細)

スピノザ共同性のポリティクス

・「現代思想・未来の思想としてのスピノザ
スピノザの思想の核心を「〈喜び〉の組織化」にみてそれを議論の中心にすえ、ドゥルーズ・ネグリだけでなくマトゥロンやバリバールといった学者の議論も踏まえて、スピノザの政治思想としての現代的な可能性を追究した本。

理性主義に偏った古典的解釈や、美しいが箱庭のようなスピノザ論、17世紀という彼の生きた時代の思想史に埋め込もうとしすぎる類書にくらべ、この本は徹底的に、スピノザ思想を「現代思想」としてとらえ、その社会的意義と、「喜びの感情」に代表されるスピノザ思想の身体的な側面について語っている。

章ごとに独立した論文集のため、部分的にやや難しい章もあるが、全般に平明・明晰な記述であり、興味のあるところから読んでいっても、最後には不思議と一貫したスピノザ像が浮かび上がる。後書きにある「生命を他の生命との関わりの中で肯定するというスピノザの基本姿勢」という本書の方向は、人権・教育・環境などの面で活動している今日のNGOやNPOなどの実践の理論的基礎ともなり得るのではないか。

私は、国家論の異例性を扱った7章と、従来の自然概念を組み替えた6章、4章の活動力論などが興味深かった。あえて結論を出していない最終論文も、読者への問いかけと実践/実験を誘っており、本書全体がこれ自体で完結せず、社会的広がりの中で意味を持つ「開かれたテキスト」という印象を与えてもいる。

現在、何らかの「生きにくさ」を感じていたり、なぜ300年も前のスピノザの思想が、今日の新しい倫理となり、新たな社会構築、新しい共同性の構成原理となり得るのかを知りたいと思っている人には、新鮮な一書。

・「〈喜び〉の重要性
専門書にしては比較的読みやすく、スピノザを今読む意味とか、スピノザが感情や感性的なものをとても大事にしていたことが明らかにされています。スピノザが訴えた〈喜び〉という感情が、これからの政治や社会の問題を考えていくときに、すごく大事なものだということがよくわかります。ドゥルーズのスピノザ読解の一番中心的な部分を簡潔に整理してくれていて、そこからさらに一歩考えを進めるために勉強になる本だと思います。

スピノザ共同性のポリティクス (詳細)

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

・「なかなか優れた本です
 デリダに関する解説書は多いです。しかもその種類は膨大で何から読んで良いのか解らなくなります。このシリーズはこういったことを全て解消してくれます。まず、的を絞った内容が良いです。この本では脱構築ですけど。この本を読んで脱構築という概念を掴んでから他の解説書、デリダの著書を読むことをお薦めします。こういう橋渡し的な本としての企画は素晴らしいと思います。

・「デリダは必要?
 デリダは彼自身の著書はもちろん、その解説本も負けないくらいに難しい。その難しい解説本の中でも本書は易しいほうだと思うが、無論思うほど易しくはない。デリダの思想を分かりやすく例えれば(分かりやすくならないかもしれないが)、「巨人の星」の大リーグボール3号に、「サインはV」のX攻撃を加えたものと言ってみたい。捕らえたと思って思いっきりバットを振っても当たらないし、誰がアタックしたのかも分からない。私が本書で理解できたと思うことは、‘正義’と‘正確’は違うということと、‘繰り返し’と‘反復’は違うということぐらいだが、これだけでも本書を読んだ甲斐があったと思う。勿論私は本書をデリダの入門書として薦めることにやぶさかではないのだが、もし本書がデリダ初体験になるという人にはこう問いたい。「もし貴方の人生が順調にいっていて、思い悩むようなことが何もないのであるのならばデリダを一生知らなくてもいいのではないのですか?」と。

・「この本から、とりあえず
著者の現象学解釈はとても素晴らしいもので、「現実」というものを考えるときには非常に有用である。本書も薄い本だが、著者の個性がよく出ている。この人の書いた本はどれも、フッサールとかレヴィナスとかデリダとかの言っていることを概観するにはあまり役立たないかもしれないが、読んでいるうちにどんどん引き込まれていってしまう。本書は小さいながらも「脱構築」について原理的な解説を施している優れた本。この本からデリダへと足を伸ばしてみるのもよいが、個人的には著者の他の本を一読されることも薦めたい。

・「読みにくい
著者のデリダ理解は深いと思われるが、それがうまく伝わって来ない。手紙調だし、不精確な例えや蛇足が目立つ。というより、親切丁寧に伝えようという気がないのかもしれない。デリダの入門書にはそういう著者が多い。それはデリダの哲学にとって本質的なことかも知れないが、入門書くらいもっとサービスしてくれても良いと思う。すでにデリダを分かっている人が復習するための本。

・「空疎
脱構築って、ただの相対主義と何が違うの?その答えを知りたくていろいろ読書しているが、いつも期待外れに終わる。この本は、「脱構築ってのは、まあその、だいたいのところ、相対主義の一変種だね。」という内容を、自己陶酔的なレトリックを駆使しつつ100倍くらいに引き延ばしたもの。まあ、著者が悪いんじゃなくてデリダの思想自体が空疎なんでしょうね。

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス) (詳細)

ドゥルーズ―解けない問いを生きる (シリーズ・哲学のエッセンス)

・「ついに見つけたドゥルーズの入門書
100頁ほどのかわいい哲学書だから、半日もあれば読める。しかし、内容は薄くはない。うれしいのは明晰であること。

卵(ラン)が生成していくイメージ。生成の流れの中で解けない問いを生きる。光に対応すべき現場がまずある。解けない問いを生きた結果、暫定的な解として視覚を得る。種をまたがって広く認められる事実だ。

まずは、システムが生成していく生を肯定する。システムが生成する流れがあって、個体が位置づけられる。同時に、個体がシステムを支えるという二面性を有する。個体は、どれとして同じものがない。しかし、それがアイデンティティを支える契機としてはとらえてはいけない。逆に、生成するシステムの内側にあって、解けない問題を解く。

個体としては、現場で解けない問題をひたすら解く。現場というのは、パラドックスに満ちていて、不条理なことも多い。しかし、システムが生成する流れは、ポジティブに肯定されなければならない。ゆえに、個体はシステムを支える、特異な存在である。

機械がこわれる、出かけるときにつまずく、言葉がからまってしまう。こういう場面では、神や世界や自我といった理念が要請される。理念とは、知覚できないし、経験もできないものだ。現場は、こうした「出来事」に満ちている。

メロディーを分解しても何もわからない。分解してもメロディーがなにかということはわからない。同様に、こうした「出来事」にあらわれる

システムの生成を支える力を理解することはあやまったアプローチだ。解けない問いなのだ。しかし、システム生成の流れの現場は、こうした問いに溢れている。メロディーの内側に身を置いて、解けない問いを解き続ける。こうしたイメージが示唆する世界は広くて、深い。

ドゥルーズの仕事は、これからどんどん整理されていくらしい。本書のような入門書に出会えて、ほんとうによかった。生をポジティブに肯定するドゥルーズの思考がどんどん世界に共有されるようになることを期待する。20世紀最大の哲学者?は、21世紀を通じて生きながらえていくのだと思う。

内田樹「寝ながら学べる構造主義」に負けぬとも劣らぬ、とっつきやすさと明晰さ。64年生まれ、檜垣立哉のがんばりに拍手、である。

・「ドゥルーズのメロディー
「哲学のエッセンス」というシリーズの名のとおり、ドゥルーズの思考のエッセンスを凝縮してわかり易く解説してくれています。他の解説書では、だいたい個々のドゥルーズの本についての解説がメインとなっていますが、この本は潔く個々の解説はほとんどありません。あくまでドゥルーズの哲学の根底に流れるドゥルーズの思考そのものについて、「生命」というキーワードを当てて丁寧に説明してくれます。ドゥルーズを「音」に切り分けることなく、ひとつの「メロディー」として聴かせてくれているのです。これは、他の解説書が断片的でわかり難いのと対照的でした。

この本はあくまでエッセンスであり、個々の本についての詳しい説明はありません。ですから、ドゥルーズの最初の一冊として最適なのではないでしょうか。個々の本についてはこの本を読んでから別の解説書にチャレンジすれば、断片をエッセンスによってつなぐことができると思います。

・「「問題に食い下がる」著者の切実さ
「ドゥルーズなんて皆目わからない、と誰もがいう」(本書p121「読書案内」より)。

 僕も、そのひとりだ。 雰囲気はわかる。上手く言えないけれども「行き詰まった高校生が初めてニーチェを読んだときの現状打破感」みたいな、なんというのか、「迫るもの」「琴線に触れるもの」はある。 でも、その後で論点が明確になってこないのだ。「感じはわかった。共感するところも多い。でもまだなにか、核心に触れない」みたいな「感想」になってしまう。もちろんこれは、僕の(読み手の)力不足である。論点というのはことばの使い方だったりするわけで、それが共有できないと、次の一歩はかなり辛い。

 しかし、たとえばニーチェだったら、本屋に行けば入門書がずらりと並んでいて、端から読んでいけば一冊や二冊は「そうそうこれこれ」と、力不足な読者でもそれなりに論点を整理できる(というのか自分のツボにはまる)本を見つけられるのだけれども、ドゥルーズなんかはそうはいかない。だからとっつきにくい。(だから上っ面の時世評論みたいに思われたりもするのだろう) だいたい、僕のような「ドゥルーズなんて皆目わからない」読者からすると、そもそも大陸系の現代哲学は英米の哲学のような「理詰め感」もないので、まず「雰囲気はわかるけれど雲を掴むような話」に聞こえてしまうのだ。

 そこで本書だ。 こんな僕でもきちんと論点がわかるようになっている。「皆目わからな」かったドゥルーズの読み方が、少しはわかるようになっている。 たった百数十ページの本のなかで「問題に食い下がる」著者の切実さが、論点を浮き彫りにしてくれるのである。  哲学とは「論理なき戯れ言」でもなければ「隙間なき方程式」でもない。本書は、「現代哲学〈者〉」の一般向け入門書としては、その匙加減も絶妙といえるだろう。

 「シリーズ・哲学のエッセンス」は、ハズレもあるけど、これは当たりの一冊だ。

・「「欲望する機械」「ノマドロジー」なしのドゥールーズ
 現代思想に興味をもって背伸びをしたはいいが、ドゥールーズ独特のキータームに翻弄された返り討ちにあった方が、私の他にもいらっしゃるんじゃないかと思います。どうしても最初はすんなりとは理解できないのは、彼の哲学の核にある「生成」の概念についてまったく無理解なまま難解な語句と格闘を続けたからかも知れません。 

 筆者は、80年代に浅田彰氏による紹介によって一斉を風靡したイメージはあくまでドゥルーズの応用編にすぎないとして、『ミルプラトー』『アンチエディプス』をテキストとして意図的に取り上げず、彼独特の専門語を極力排しています。

 これは他のドゥルーズ入門書がいまだになしえていない試みの一つなのではないでしょうか。そうすることによって見事にドゥルーズ!!!学の底流をなす「生成」の概念を丹念かつクリアに示しています。

 ドゥールーズに食あたりを起こした方も、分かったつもりの方も、薄い本ですから御一読をお奨めします。

・「ベルクソン的
ã"の本はï¼'00ページくらいの短いものですが、大変すばらã-いと思います。

ドゥルーズは基本的に、ニーチェ・スãƒ"ノザ・ãƒ'ューム・ベルクソンなどに端ã‚'発ã-た学è€...であります。ドゥルーズというと、ガタリとのå...±é-˜ï¼ˆã€Œã‚¢ãƒ³ãƒãƒ»ã‚ªã‚¤ãƒ‡ã‚£ãƒ-ス」「ミル・ãƒ-ラトー」)などが代表的とされ、リゾームや器官なき身ä½"といった独特のç"¨èªžã‚'多ç"¨ã-たものが好かれる傾å'にありますが、ã"の本ではベルクソンã‚'重要è¦-ã-ながらè«-ã‚'進めていきます(特に重要なのは「卵」とか「å†...在性」とか「潜在性」とå'¼ã°ã‚Œã‚‹ã‚‚の)。ドゥルーズ独特のç"¨èªžã¯ã"の本では余り出てきませã‚"。ã-かã-ながら、ã"の本はドゥルーズの背景にあるè«-ã‚'事ç'°ã‹ã«è«-じてくれるので、ドゥルーズç"¨èªžã®æ„å'³ã«ã‚‚精通できると思うã-、現に私は出来まã-ã!Ÿ!!。

ドゥルーズの本ã‚'読む前にドゥルーズの背景ã‚'知るã"とは重要です。ですから、ã"の本は非常にオススメです。ã"の本が読めたら次は、宇野邦一さã‚"の「ドゥルーズ 流動のå"²å­¦ã€ãªã©ã‚'読むといいと思います。

ドゥルーズ―解けない問いを生きる (シリーズ・哲学のエッセンス) (詳細)

西田幾多郎の生命哲学 (講談社現代新書)

・「今日の西田哲学
いろいろと独自の色づけもなされているが、現代思想研究者による「西田哲学入門」の書物とみてよいと思う。キー・ワードごとに、ほぼ西田の思想・哲学の変遷にそうかたちでその意味するところが説かれている。著者には無礼になるが、内容をあえておおまかにトレースすれば、「純粋経験」の思考を深めていったのはよいがそれを「自覚」するための空間である「場所」の臨界点としての「絶対無」の位置づけをめぐって行き詰まり、田辺元による批判や自己の徹底的な反省もあって、「行為的直観」という個体に内在しつつ超越しつづけるための生成論的な認識を進化させながら「絶対矛盾的自己同一」というあの有名な世界理解の視点と方法に到達する、といった趣旨である。前半がベルクソン、後半がドゥルーズに近い思考スタイルであるとして対比的に論じられる。「難解」で知られる西田哲学も大分わかりやすく整理できるようになってきたのだなあ、という感想をもった。日本における思想・哲学研究の発展のたまものか。弟子筋による「共感」的な解読や批判者の攻撃的な読みや用語をあげつらった素人の揶揄のどれとも違う、淡白な西田論でよみやすい。

西田幾多郎の生命哲学 (講談社現代新書) (詳細)

オートポイエーシス―第三世代システム

・「心的システムという究極へ向かって
 従来のシステム論を超える第三世代のシステム論として「オートポイエーシス」が考察される。結論からいえば「オートポイエーシスは境界をみずから作り出すことによって、そのつど自己を制作する」と著者は考える。

 そこでオートポイエーシスのなかでも最も複雑で典型的な自己言及システムである心的システムが考察される。心的システムの固有の特徴として観察システムの出現が指摘され、最終的な問題提起がなされていく。観察システムの本性として「自己を世界との関係で捉え」ることが論証され、ルーマンやドウルーズへの批判的な検討とともに無意識への否定が示され、システムの基本的定義に戻る....。 カフカの『審判』を題材にした終章は『審判』そのもののように開いたまま閉じられる。それは読者個別のそれぞれの現実に作動可能な一冊だということを示してるようだ。

 本書は理論書だが、本書から大きな影響を受けた本として斎藤環の『文脈病』があり、斎藤の現在の批評活動そのものもシステム論との反復作動が目立つ。

 またオートポイエーシスの最重要概念である「自己の境界を区切るというシステム-環境」を支える「位相学的座標軸」などは、ほとんど吉本隆明の『心的現象論序説』における基本概念の「原生的疎外」「純粋疎外」などの位相学的構成とオーバーラップする。 本書はさまざまな散種が期待される一冊だといえるだろう。

・「作動と構造と産出的作動
システム論を歴史的に跡づけ、オートポイエーシスを解説した傑作である。「あとがき」からまとめると:「動き」という電源をいれると、「構造」(システム)が出現する。電源をきって動きが停止すると、それとともに構造は消滅し、構成素だけが残る。動いているかぎり構造ができて、構造と環境(構造の外)とに区別される。作動と構成素と構造と環境の四つの概念からなる。すると問題は作動がいかにして始まるかということに集中する。

作動が停止すると、構成素が残るといっているから、作動すると、構成素が構造を形成することになる。だが、作動するためには構成素が必要である。何もないところで「作動」が可能であろうか。不可能だ。なぜなら電源を入れるには、構成素や構造がなければならないから。!これは逆に、構成素や「細胞」(構造)があってもそれだけでは「生きた細胞」にはならないのと同じことである。生きた細胞になるためには「作動」が必要だ。だがその作動は構成素を必要とする。この事態をどのように説明するかにこの理論の生命がかかっている。

「本文」ではこういう。「システムは作動をつうじて構成素を産出し、現実の構造を形成する。」次に「オートポイエーシスの規定をみたすような構成素を見出すことができれば、ただちにシステムは作動を開始し」と上に述べたことに矛盾することを主張し、最後に「オートポイエーシス・システムは作動することによって現実の構成素を産出し、そのことをつうじて現実の位相空間(いろいろの空間)に存在する。」と最初の定義にもどっている。そして「システムにとって産出的作動という行為をおこなうことが、そのまま現実に存在することである。行為することがすなわち存在することであるような行為存在論である。」と結論する。著者はこのあたりの論理の矛盾ないしあいまいさを解決する必要がありそうだ。それは産出的作動の正確な定義にあるように思われる。

オートポイエーシス―第三世代システム (詳細)
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