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▼本:セレクト商品

罪と罰 (上巻) (新潮文庫)罪と罰 (上巻) (新潮文庫) (詳細)
ドストエフスキー(著)

「非凡人には殺人を犯す権利があるか?」「「聖」と「俗」の見事な大逆転」「罪と罰」「面白いドストエフスキー」「強烈過ぎる個性」


罪と罰 (下巻) (新潮文庫)罪と罰 (下巻) (新潮文庫) (詳細)
ドストエフスキー(著)

「非凡人には殺人を犯す権利があるか?」「「聖」と「俗」の見事な大逆転」「罪と罰」「面白いドストエフスキー」「強烈過ぎる個性」


スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF) (詳細)
フィリップ・K. ディック(著), Philip K. Dick(原著), 浅倉 久志(翻訳)

「両方の訳とも、やはりとても良いです。」「2006秋ごろ映画公開」「面白いが、超難解。」「一時の楽しみとしての麻薬の罰」「3度読めば何かわかるかも」


10月はたそがれの国 (創元SF文庫)10月はたそがれの国 (創元SF文庫) (詳細)
レイ・ブラッドベリ(著)

「ブラッドベリ最高の短編集」「未来の作家の卵達に贈る本」「不思議が織り成す現実」「まず不安や恐怖が先にあってそこから妄想が生まれた?」「ご用心、ご用心」


タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫 SF 262)タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫 SF 262) (詳細)
カート・ヴォネガット・ジュニア(著), 浅倉 久志(翻訳)

「泣けた・・・」「著者一流の名セリフ「私を利用してくれてありがとう」「いや、どういたしまして」」「ジャンルに捕らわれず自由な心で読んでください」「自分を試される本」「傑作!」


異邦人 (新潮文庫)異邦人 (新潮文庫) (詳細)
カミュ(著)

「異邦人…。」「生きることへの違和感に素直に生きる男の話」「凝縮力をもった名作」「白い以上に白い、と語ることは虚偽である」「名作たる所以」


百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967)) (詳細)
ガブリエル ガルシア=マルケス(著), Gabriel Garc´ia M´arquez(原著), 鼓 直(翻訳)

「世界は小説? 物語?」「世界文学史に残る傑作です。」「アゲイン、そしてまた」「愛について」「傑作」


伝奇集 (岩波文庫)伝奇集 (岩波文庫) (詳細)
J.L. ボルヘス(著), 鼓 直(翻訳)

「ボルヘス印全開の代表作」「この素晴らしい新世界」「まずこの一冊」「落ち穂拾い」「無限の迷宮」


西瓜糖の日々 (河出文庫)西瓜糖の日々 (河出文庫) (詳細)
リチャード ブローティガン(著), Richard Brautigan(原著), 藤本 和子(翻訳)

「詩的で、不思議にリアルな寓話」「何だかわからないけれど、素敵」「そんな場所は存在しない」「忘れようとしても思い出せない」「自然から哲学が生まれる。」


審判 (岩波文庫)審判 (岩波文庫) (詳細)
カフカ(著), Franz Kafka(著), 辻 ヒカル(著)

「社会の「しかけ」」「驚愕」「最高傑作」「20世紀文学の金字塔」「読む人に色々なことを考えさせてしまう作品」


ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス) (詳細)
J.D.サリンジャー(著), 野崎 孝(翻訳)

「旧訳と新訳の両方を読んで」「青春小説の傑作」「大人社会に疑問を持っている人へ」「アメリカ社会の幸福幻想に冷や水を浴びせる」「青年文学を超えて」


死に至る病 (岩波文庫)死に至る病 (岩波文庫) (詳細)
キェルケゴール(著), 斎藤 信治(翻訳)

「理解できるとうれしい」「この病は死に至らず。ーーヨハネ11・4」「宗教宣言」「キリスト者を目指すための書」「絶望する者よ、キリストのもとに来たれ」


火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1)火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1) (詳細)
ジョン・ディクスン・カー(著), 小倉 多加志(翻訳)

「余韻が後を引くラストの反転の妙。魅了されました」「出来れば予備知識無しで読んで欲しい」「読み方によって感じ方も変わる」「この大胆さ」「カー+E.クィーン+H.マクロイ=火刑法廷 ?」


グルーム (文春文庫)グルーム (文春文庫) (詳細)
ジャン ヴォートラン(著), Jean Vautrin(原著), 高野 優(翻訳)

「傑作」「暗黒小説」「サイコ野郎を笑い飛ばせ!」「P-FUNKファンに。」「ファンク!」


人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))人間失格 (新潮文庫 (た-2-5)) (詳細)
太宰 治(著)

「転落人生」「自己矛盾に立ち向かい、敗れた人、太宰治。」「青春の一冊」「密かな仲間たち」「ありがとうございます。」


金閣寺 (新潮文庫)金閣寺 (新潮文庫) (詳細)
三島 由紀夫(著)

「読者を悩ませる大傑作!」「日本文学の最高峰!」「読んでいる時は別世界にいるようです・・・。」「麻薬」「理解が深まるまで読みたい作品」


砂のクロニクル〈上〉 (新潮文庫)砂のクロニクル〈上〉 (新潮文庫) (詳細)
船戸 与一(著)

「卓越した世界観」「期待を裏切らない面白さ」「脱帽する」「中東に平和は訪れるのか」「これぞ冒険小説の醍醐味」


砂のクロニクル〈下〉 (新潮文庫)砂のクロニクル〈下〉 (新潮文庫) (詳細)
船戸 与一(著)

「さすがに凄い」


クラインの壷 (新潮文庫)クラインの壷 (新潮文庫) (詳細)
岡嶋 二人(著)

「岡嶋二人の最高傑作」「傑作」「この本がきっかけで自分は昔岡嶋二人にはまりました」「超名作です。オススメ!」「岡嶋二人にハマった。」


阿修羅ガール (新潮文庫)阿修羅ガール (新潮文庫) (詳細)
舞城 王太郎(著)

「阿修羅ガール、愛の文庫化。」「最高傑作近い」「純文学」「ぶっとんでる」「おもろ」


銀河ヒッチハイク・ガイド (河出文庫)銀河ヒッチハイク・ガイド (河出文庫) (詳細)
ダグラス・アダムス(著), 安原 和見(翻訳)

「宇宙弥次喜多珍道中」「パニくるな!」「原書で読みたいところ」「意外な古典」「宇宙ってどんなとこ?」


宇宙の果てのレストラン (河出文庫)宇宙の果てのレストラン (河出文庫) (詳細)
ダグラス・アダムス(著), 安原 和見(翻訳)

「マーヴィンはやっぱり最高♪」「私の座右の書」「マニアはもっとマニアック」「事象渦絶対透視機」「すみからすみまで楽しめます」


宇宙クリケット大戦争 (河出文庫)宇宙クリケット大戦争 (河出文庫) (詳細)
ダグラス・アダムス(著), 安原 和見(翻訳)

「ファン待望の新訳版です」「評価困難」


さようなら、いままで魚をありがとう (河出文庫)さようなら、いままで魚をありがとう (河出文庫) (詳細)
ダグラス・アダムス(著), 安原 和見(翻訳)

「三部作の"4作目"」「<外伝>って感じかな」「ドタバタから純愛物語に?」「相変わらずの英国ナンセンスなのですが、SFではなく恋愛ものです」「それでもイルカは去る。」


ほとんど無害 (河出文庫)ほとんど無害 (河出文庫) (詳細)
ダグラス・アダムス(著)

「ここにシリーズ完結!」「言われなくても、パニくります」「これが最終巻って、ちょっとつらい」「とうとう完結してしまった…」「”ほとんど無害”(Mostly Harmless)」


▼クチコミ情報

罪と罰 (上巻) (新潮文庫)

・「非凡人には殺人を犯す権利があるか?
この本の中核を成しているのは、やはり主人公の元学生ラスコーリニコフによる殺人の動機でしょう。それは、予審判事ポルフィーリイとの言論対決によって徐々に明らかになっていきます。非凡な人間には、自分自身が納得する理由があれば、法律を破る(殺人を犯す)権利がある、という理論が殺人の動機になるわけですが、その後主人公は、殺人を犯したことに対する倫理的な問題よりも、自分は殺人を犯すに足る非凡な人間ではなくてただの凡人なのではないか、という問題に悩みます。この問題にドストエフスキーは、最終的に理屈で説明の付かない結論を与えていますが、その説明をあまりしないところに、かえって著者の深い洞察力がうかがえます。軽いカタルシスではなく、重たい問題意識を読者に与え、考え悩ませるのが狙いであるとすれば、まさに絶妙のエンディングと言えるでしょう。

ところで、この本を古典たらしめているのは、殺人を犯したことによって苦悩するラスコーリニコフの姿が、多くの青年が成長の一時期に持つ悩みを具現化しているからだと思いますが、ドストエフスキーの問題意識は別のところにもあるようです。本書は、爛熟のロマノフ王朝下、農奴解放期の大混乱の中で、知的階級に属する若者たちが、生半可な理論を振りかざして、革命運動をしていたことに対する批判なのではないでしょうか。金貸しの婆さんを殺すこと、つまり現体制を転覆すること、それは同時に頭の弱いリザヴェータ、すなわち普通に生きている庶民の生活を破壊することにつながる、その責任が取れるのか、とドストエフスキーはこの本で警鐘を鳴らしているように思えます。その意味で私は、金貸しの婆さんはともかく、リザヴェータを殺したことにはほとんど言及しないラスコーリニコフに不気味さを感じると同時に、著者の視点の鋭さを見ます。

・「「聖」と「俗」の見事な大逆転
将来英雄になるであろう非凡な人間は、それが英雄となるために避けられぬことであるならば、社会に有益でない人間を殺めても、許される。ナポレオンに心酔する主人公は、自ら築いたこの理論をもとに、高利貸しの老婆、さらには何の罪もないその妹までも惨殺してしまいます。

たしかに歴史を紐解いてみても、ナポレオンのみならず、三国志の曹操や日本の織田信長の例もあるように、既成の概念を打ち破る人間とは、とかく他人の血を流すことを躊躇いません。これら負の英雄像を、チャップリンが映画「殺人狂時代」において、「ひとり殺せば悪党で、100万人だと英雄だ」と大いに皮肉ったことはあまりに有名です。

主人公は、第一の殺人でいきなり精神的な行き詰まりに陥り、「英雄」となる前に平凡な「悪党」で終わることを恐れ、苦しむ。本書の大部分はこの非凡と平凡の狭間で揺れる主人公の心の葛藤で構成されています。この物語をいかに捉えるかは、読み手によって千差万別でしょう。私はシンプルに「愛の物語」と捉えています。

なぜなら、上記の理論は彼を支える信念であっても、殺人の動機ではないと考えるからです。生活に苦しむ自分のため、富豪との愛のない結婚へ望もうとしている(と主人公は思い込んでいる)妹への愛。そして無力な自己への怒り。それらが相まって彼を殺人へ駆り立てたのではないでしょうか。しかし、平凡な人間に殺人は大事業です。それを完遂するための心の拠り所として、かの英雄論が浮かび上がってくるのです。が、すべからく英雄とは唯一無二のもの。他者を模範に英雄たらんと望む時点で、すでに彼は英雄の資格を失っており、自己の空想の中での「聖」の立場から、現実としての「俗」へ転落します。

そんな敗者を救うのが、薄幸の娼婦という「俗」の象徴たるソーニャからの一点の曇りもない愛である、という点こそ、この物語の妙でしょう。主人公とソーニャだけではありません。帝政ロシア時代の輝ける首都サンクトペテルブルクは陰惨で気だるい空気に包まれ、その反面、最後の舞台であるシベリアの流刑地は、陽光の眩しい、さながら楽園のような場所。「聖」も「俗」も人間が作り出したものある以上、人間の意志ひとつでどちらにでも転じてしまえることを、この作品から強く感じることができます。多少取っ付きにくい文体ではありますが、読めば必ず得るもののある一冊です。

・「罪と罰
個人的な意見では、物語は終り方によりそれ以上に素晴らしくなったり、それまでの感動を無にしてしまったりすると思っています。

<罪と罰>の終り方は実に無心論者のドストエフスキーらしいものだった。決して”罪を犯した人間も祈れば許される”とかいう類ではなく、最後の3行のあたりの”彼を救ったのは・・・だった”という表現。

この最後の3行が素晴らしく、それ以外の長いストーリーが全て<伏線>のように感じた。

読んだことのない人には是非お勧めしたい作品です。

罪を犯し罰を受ける。しかし罰を受けても罪は消えない。罪を背負い続けて生きる人間を救うものはなんなのか?

・「面白いドストエフスキー
ドストエフスキーの初期の作品。全作品中、最も分かりやすく、読みやすい。そのため、ドストエフスキーって何と思う人は、この作品を最初に手に取るだろう。作品の内容は、刑事コロンボのような構成を取っている。まず、最初に、主人公の紹介が行われ、その心理が説明され、犯罪が行われる。その後、犯罪者となった主人公の心理的変化や行動が微細に描かれる。その中でも、担当刑事に追い詰められていく様子は、最も興味深い。最終場面も、他に類を見ない独特の結論である。

読者は、この小説で、ドストエフスキーって、面白いなと思い、次の小説に手を伸ばすだろう。そのとき、次に書かれた作品ではなく、彼の最後の作品である「カラマーゾフの兄弟」をお勧めしたい。この作品もまた、父親殺しの真犯人は誰かが主題となっている、面白い作品だからだ。

・「強烈過ぎる個性
『カラマーゾフ』と言い、ドストエフスキーの凄いところは、よくこんな人物を描けるなあと思わせる特異な人物を登場させる点です。彼らは似たり寄ったりではなく、実に強烈な個性を発揮しています。他の文豪、たとえばトルストイでは描けないような‘アク’の強いキラクターが生み出され、しかも重要な役回りを果たしています。

社会の底辺に這いつくばって(あるいは迫害され)、生きる智恵を絞る民衆を描かせたらドストエフスキーの右に出る作家はいないでしょう。かと言ってそれだけではなく、地位や教養の高い人物も必ず登場していて(これもまた個性豊かで)、その接点や対比などがじつに面白く描かれています。

漱石なども私の好きな作家なのですが、登場人物が全体的に知的レベルが高すぎるきらいがあります。

あらためて話の内容については述べませんが、「読んで後悔しない名作」であることには間違いありません。

罪と罰 (上巻) (新潮文庫) (詳細)

罪と罰 (下巻) (新潮文庫)

・「非凡人には殺人を犯す権利があるか?
この本の中核を成しているのは、やはり主人公の元学生ラスコーリニコフによる殺人の動機でしょう。それは、予審判事ポルフィーリイとの言論対決によって徐々に明らかになっていきます。非凡な人間には、自分自身が納得する理由があれば、法律を破る(殺人を犯す)権利がある、という理論が殺人の動機になるわけですが、その後主人公は、殺人を犯したことに対する倫理的な問題よりも、自分は殺人を犯すに足る非凡な人間ではなくてただの凡人なのではないか、という問題に悩みます。この問題にドストエフスキーは、最終的に理屈で説明の付かない結論を与えていますが、その説明をあまりしないところに、かえって著者の深い洞察力がうかがえます。軽いカタルシスではなく、重たい問題意識を読者に与え、考え悩ませるのが狙いであるとすれば、まさに絶妙のエンディングと言えるでしょう。

ところで、この本を古典たらしめているのは、殺人を犯したことによって苦悩するラスコーリニコフの姿が、多くの青年が成長の一時期に持つ悩みを具現化しているからだと思いますが、ドストエフスキーの問題意識は別のところにもあるようです。本書は、爛熟のロマノフ王朝下、農奴解放期の大混乱の中で、知的階級に属する若者たちが、生半可な理論を振りかざして、革命運動をしていたことに対する批判なのではないでしょうか。金貸しの婆さんを殺すこと、つまり現体制を転覆すること、それは同時に頭の弱いリザヴェータ、すなわち普通に生きている庶民の生活を破壊することにつながる、その責任が取れるのか、とドストエフスキーはこの本で警鐘を鳴らしているように思えます。その意味で私は、金貸しの婆さんはともかく、リザヴェータを殺したことにはほとんど言及しないラスコーリニコフに不気味さを感じると同時に、著者の視点の鋭さを見ます。

・「「聖」と「俗」の見事な大逆転
将来英雄になるであろう非凡な人間は、それが英雄となるために避けられぬことであるならば、社会に有益でない人間を殺めても、許される。ナポレオンに心酔する主人公は、自ら築いたこの理論をもとに、高利貸しの老婆、さらには何の罪もないその妹までも惨殺してしまいます。

たしかに歴史を紐解いてみても、ナポレオンのみならず、三国志の曹操や日本の織田信長の例もあるように、既成の概念を打ち破る人間とは、とかく他人の血を流すことを躊躇いません。これら負の英雄像を、チャップリンが映画「殺人狂時代」において、「ひとり殺せば悪党で、100万人だと英雄だ」と大いに皮肉ったことはあまりに有名です。

主人公は、第一の殺人でいきなり精神的な行き詰まりに陥り、「英雄」となる前に平凡な「悪党」で終わることを恐れ、苦しむ。本書の大部分はこの非凡と平凡の狭間で揺れる主人公の心の葛藤で構成されています。この物語をいかに捉えるかは、読み手によって千差万別でしょう。私はシンプルに「愛の物語」と捉えています。

なぜなら、上記の理論は彼を支える信念であっても、殺人の動機ではないと考えるからです。生活に苦しむ自分のため、富豪との愛のない結婚へ望もうとしている(と主人公は思い込んでいる)妹への愛。そして無力な自己への怒り。それらが相まって彼を殺人へ駆り立てたのではないでしょうか。しかし、平凡な人間に殺人は大事業です。それを完遂するための心の拠り所として、かの英雄論が浮かび上がってくるのです。が、すべからく英雄とは唯一無二のもの。他者を模範に英雄たらんと望む時点で、すでに彼は英雄の資格を失っており、自己の空想の中での「聖」の立場から、現実としての「俗」へ転落します。

そんな敗者を救うのが、薄幸の娼婦という「俗」の象徴たるソーニャからの一点の曇りもない愛である、という点こそ、この物語の妙でしょう。主人公とソーニャだけではありません。帝政ロシア時代の輝ける首都サンクトペテルブルクは陰惨で気だるい空気に包まれ、その反面、最後の舞台であるシベリアの流刑地は、陽光の眩しい、さながら楽園のような場所。「聖」も「俗」も人間が作り出したものある以上、人間の意志ひとつでどちらにでも転じてしまえることを、この作品から強く感じることができます。多少取っ付きにくい文体ではありますが、読めば必ず得るもののある一冊です。

・「罪と罰
個人的な意見では、物語は終り方によりそれ以上に素晴らしくなったり、それまでの感動を無にしてしまったりすると思っています。

<罪と罰>の終り方は実に無心論者のドストエフスキーらしいものだった。決して”罪を犯した人間も祈れば許される”とかいう類ではなく、最後の3行のあたりの”彼を救ったのは・・・だった”という表現。

この最後の3行が素晴らしく、それ以外の長いストーリーが全て<伏線>のように感じた。

読んだことのない人には是非お勧めしたい作品です。

罪を犯し罰を受ける。しかし罰を受けても罪は消えない。罪を背負い続けて生きる人間を救うものはなんなのか?

・「面白いドストエフスキー
ドストエフスキーの初期の作品。全作品中、最も分かりやすく、読みやすい。そのため、ドストエフスキーって何と思う人は、この作品を最初に手に取るだろう。作品の内容は、刑事コロンボのような構成を取っている。まず、最初に、主人公の紹介が行われ、その心理が説明され、犯罪が行われる。その後、犯罪者となった主人公の心理的変化や行動が微細に描かれる。その中でも、担当刑事に追い詰められていく様子は、最も興味深い。最終場面も、他に類を見ない独特の結論である。

読者は、この小説で、ドストエフスキーって、面白いなと思い、次の小説に手を伸ばすだろう。そのとき、次に書かれた作品ではなく、彼の最後の作品である「カラマーゾフの兄弟」をお勧めしたい。この作品もまた、父親殺しの真犯人は誰かが主題となっている、面白い作品だからだ。

・「強烈過ぎる個性
『カラマーゾフ』と言い、ドストエフスキーの凄いところは、よくこんな人物を描けるなあと思わせる特異な人物を登場させる点です。彼らは似たり寄ったりではなく、実に強烈な個性を発揮しています。他の文豪、たとえばトルストイでは描けないような‘アク’の強いキラクターが生み出され、しかも重要な役回りを果たしています。

社会の底辺に這いつくばって(あるいは迫害され)、生きる智恵を絞る民衆を描かせたらドストエフスキーの右に出る作家はいないでしょう。かと言ってそれだけではなく、地位や教養の高い人物も必ず登場していて(これもまた個性豊かで)、その接点や対比などがじつに面白く描かれています。

漱石なども私の好きな作家なのですが、登場人物が全体的に知的レベルが高すぎるきらいがあります。

あらためて話の内容については述べませんが、「読んで後悔しない名作」であることには間違いありません。

罪と罰 (下巻) (新潮文庫) (詳細)

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

・「両方の訳とも、やはりとても良いです。
創元SF文庫から山形浩生さんの訳、「暗闇のスキャナー」の邦題で出ていた"The Scanner Darkly"を、浅倉久志さんが新訳したのがこのスキャナー・ダークリー。

内容に関しては、ディック後期の傑作ということもあり、色々なところに書かれているので、僕は翻訳の違いに関して感じた事を。

ハヤカワやサンリオの浅倉久志訳でディックの作品に親しんでいた僕は、山形訳の暗闇のスキャナーの翻訳は言葉が少しシャープ過ぎる感じもしていたけれど、今回浅倉訳が出て、改めて読み比べてみると、登場人物のボブ・アークターが壊れてしまった後なんかは、山形さんの訳の方がしっくり来て、アークターが人とは違う何かになってしまった感じがよく伝わってくるように思う。細かな感情表現など、僕らがリアルに感じる言葉で訳している分、感情移入も誘われる。この山形さんの訳に対しては好き嫌いがはっきりでそうな気がするけど、若い子は多分こちらに惹かれると思う。

一方、浅倉訳の方は、文の調子に慣れているせいもあってか、文章が読みやすく、文の繋がり、運びが上手くよどみない感じがした。あまりにもすぐなくなるような現代的で過激な表現は使われてないし、それだけ文が柔らかいので、ディックをはじめて読む人とかには、浅倉さんの訳がお勧めだと思う。

読み比べても楽しめるので、ディック好きなかたは、躊躇せず、両方、出来れば原書も買いましょう。

何度読んでも、アークターが分裂して行くところの描写や、最後の農場での独白は心に迫るものがある。

・「2006秋ごろ映画公開
 ディックの中で最も好きなこの作品、夢にまで見た映画化です。主役はキアヌ・リーブスで、監督はリチャード・リンクレーター。映画のほうはCGの特殊処理により動く油絵みたいになっています。本国アメリカでは7月公開らしく、日本では秋辺りに見れるでしょう。 予告編を見た限りでは原作に忠実に、映像化されているみたいで期待は大きい。予告編は、ワーナーブラザーズの公式サイトにリンクがあります。

・「面白いが、超難解。
ディックの作品のなかでも、特に難しい作品だな。俺は、一読目サッパリわからなくてもう一度読み返した。それでも、完全に理解できたとは思えない。やっと一部理解出来たくらいだが、そのおかげで何となくだが面白さがわかったような気がする。主人公が、だんだん麻薬中毒になって壊れてく所は、妙に幻想的に表現されてる。何となく、美しさまで感じる。まさか映画になるとは思わなかったが。ほとんど表現するには不可能な感じがしたから・・・。で、一応映画の方も観たが、何だかわけの判らないすごい状態になってるな。CG?と実写の合成?なのかな、どうも非常に不愉快な不安定な表現の方式だとしかおもえない。観てると、イライラしてくる。それに、原作を知らない人が映画を先にみたら、「なんだコリャ?」ってなるなと思う。この作品に関しては、絶対に原作を先に読んでおかないと理解不能に陥る。最悪の場合、途中退場か居眠りだ。だから、もしDVDビデオ買うつもりなら一度は読んどいた方がいい。少しは理解出来るかもしれないから。それでも、原作にはかなわないが。

・「一時の楽しみとしての麻薬の罰
この本は、1977年の作品(書かれたのは73年)なのですが、少しも古さを感じません。

主人公ボブ・アークターは、麻薬のおとり捜査官で、その時はフレッドという名前を使っています。そして、壊れてしまってニュー・パスの施設に入居すると、ブルースという名前で呼ばれています。このあたりの名前と人物の性格描写の使い分けが見事で、主人公の徐々に壊れてゆく様子が見事に表現されています。途中では、仲間同士の間で、おとり捜査官、密告者といった疑心暗鬼な部分も出てきて、しょっとミステリー色も楽しめます。いずれにしても、一時の楽しみとしての麻薬は、大きな罰を伴うものだということが、切実なタッチで描かれていて面白い作品でした。

この間、映画の予告編を見ましたが、キアヌ・リーブス、ウィノナ・ライダーなどの出演の実写をアニメ処理したものでした。それが、この作品のイメージをより高めているように思いました。機会があれば、映画も是非見たいと思います。

・「3度読めば何かわかるかも
難しい。 近未来SF麻薬廃人小説。30年前に描かれた著者の世界観は、一部は現実となり、残りは未だ夢物語だ。

読後は、遊園地のコーヒーカップに乗ってハンドルを思いっきり回した後のような、そんな目まいさえ覚えてしまう。

囮の麻薬捜査官が麻薬によって壊れていく、そんな三文小説にもあるようなストーリーは、著者の繰り出す小道具のひとつでしかない。自分と他人の区別と境界が溶けて曖昧になり、深い渦に吸い込まれるが如く落ちてゆく。

爽やかでもないし、ハッピーエンドもない。断片的な記憶が、今にも崩れ落ちそうな記憶が、危なっかしく組み立てられて綴られていく。あぁ、後でもう一度、読み直してみよう。

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF) (詳細)

10月はたそがれの国 (創元SF文庫)

・「ブラッドベリ最高の短編集
ブラッドベリの代表作としては「火星年代記」や「刺青の男」を挙げる人が多いが、私にとってブラッドベリの最高傑作はこの本。彼のセンチメンタルな部分とグロテスクな部分が同居する卓越した感性が、ぎっしり詰まっている。20世紀アメリカ幻想文学が生んだ最高の短編集といってよい。「みずうみ」「熱気のうちで」「2階の下宿人」「こびと」などなど、どれもこれも素晴らしすぎる。ブラッドベリはやはり、この本に代表される初期の作品が一番いいと思います。

・「未来の作家の卵達に贈る本
僕の手元にある文庫は、1965年12月24日のクリスマス・イブに発行された初版である。以来、約40年間の星霜。何度も読み返してきた。不思議に飽きることはなかった。なぜなのだろうか。「波がぼくを、この世から、空飛ぶ鳥から、砂浜に遊ぶ子供たちから、岸辺に立つぼくの母から切りはなした。やがてまた、波はぼくをかえしてよこした。」『みずうみ』より。なんと多くの、少年と少女たちが、この十月の国を訪問し、何かを見てしまい、立ち去り、時を経てから、その恐怖を書いてきたことだろう。これは、作家を生み出す文庫なのだ。

・「不思議が織り成す現実
 不思議であやうい雰囲気をただよわせた短編一つ一つにどっしりとした現実味がある。これは私達からかけ離れた世界ではなくとても身近な世界だ。SFという手法をとっているけれども、もしかしたらこれは人間の深層心理そのものかもしれない。人間の恐怖、残酷さ、慢心、せつなさ、好奇心、やさしさが美しい描写の中で際立っている。誰もが感じうることを作者が代弁してくれているようだ。 短編だから読みやすい。SFが苦手をいう人にもぜひ読んでもらいたい本。

・「まず不安や恐怖が先にあってそこから妄想が生まれた?
まず不安や恐怖という感情が先にあって、そこから産み出されたストリー。つまりこれらの物語は、すべてブラッドベリの妄想の産物かも・・・と思わせるところがある。神経を病んだ人間でなければ絶対に思いつかない内容だという気がする。

・「ご用心、ご用心
O・ヘンリーの短編集とこの本は、この季節、ひんやりとよく晴れた日曜日は思い出して読みたくなります。高校の時からの習慣ですから何回読み返したかわかりません。叙情的なのだけどセンチメンタリズムとは無縁の、美しく怖い世界。どの一編もすばらしいのですが、特に好きなのは「骨」いや「群衆?」「次の番??」ああ決められません。古くは「トワイライトゾーン」や「ウルトラQ」、「世にも奇妙な物語」などが好きな人ははまること請けあいですのでご用心・ご用心・・・作成日時

10月はたそがれの国 (創元SF文庫) (詳細)

タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫 SF 262)

・「泣けた・・・
偶然の一致かはたまた予定調和か・・・。深遠な近未来の世界に迷い込んで、その奇妙さに戸惑いつつも、ぐんぐん読み進んでしまった。宇宙空間へトリップしたい人、人間の悲しさ・素晴らしさを味わいたい人、その他諸々の人にぜひお勧めしたい。バクモンの太田氏には、紹介してもらったことを感謝したい。

・「著者一流の名セリフ「私を利用してくれてありがとう」「いや、どういたしまして」
約50年前に発表された本作は20世紀小説の大傑作。大富豪コンスタント氏が宇宙のさすらい人となり、太陽系の星を転々とし、最後に家族3人がタイタンに安住するが、そのタイタン到着までの悠久の人類史が遥かな宇宙旅行途中に円盤の故障でそこに不時着したトラルファマドール星人に部品を届けるべく同星人による干渉を受けた結果だった、という壮大かつ荒唐無稽な寓話。しかし、波乱万丈の生涯を余儀なくされたコンスタント夫人は、「だれにとってもいちばん不幸なことがあるとしたら、それはだれにもなにごとにも利用されないことである」という箴言を残す。ヴォネガットの哲学を示す何たる名セリフであることか。本書は、タイタンが舞台になって以降の切なくも美しく、作者の優しさを感じさせる終盤が圧倒的に素晴らしいが、そこに至るまでの展開にも、異星からの攻撃を受けて初めて一致団結する地球人の姿や徹底的に無関心な教会という架空の宗教に込められた現代社会への皮肉、時空を超えた存在という概念や人の人に対する博愛の象徴としての消防車賛歌といった後の彼の作品で繰り返されるモチーフが含まれている。感動の終盤では自身の生誕地という理由以外に何故著者がインディアナ州インディアナポリスにこだわるかもわかる。

ヴォネガットらしさは本作で開花した。以後、「母なる夜」、「猫のゆりかご」、「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」、「スローターハウス5」と秀作が続く。私の青春の愛読書だったが、20世紀米国小説の金字塔たる不滅の作品群だと今も確信する。なお、翻訳云々を指摘しているレビューもあるが、私は読みにくさを昔も今も感じなかったことを付言する。

それでは、単時点的な意味において、さようなら。

・「ジャンルに捕らわれず自由な心で読んでください
このタイタンの妖女はヴォネガット自身が好きな作品の一つに挙げている。だが、彼はこの一冊によって自らをSFのペイパーバックの狭い片隅に押し込められてしまうことになってしまう。そんなある意味忌まわしいとも言える作品を、彼は好きな作品の一つに挙げているのは一体何故だろうか。

確かに、ワイドスクリーンバロックの手法を借りたこの作品は、一見ただの皮肉に溢れた奇妙なSFに見えるだろう。しかし、それはこの作品の一側面にしか過ぎない。この作品のもう一つの側面は、運命という化け物に翻弄される者たちの虚無と、そんな彼らに対する憐憫にも似た深い愛情だ。

運命の無情さを引き立たせるために、巨視的な視野でもって繰り広げられる物語の受け皿としてのSF。愛そのものが放つ甘ったるい匂いを和らげるためのアフォリズムに満ちた文章。それらがこのタイタンの妖女には必要だったのだ。

それがゆえに読み解くには確かにSF的素養が必要であるといえるだろう。だが、それが全てではない。

それは登場人物に注がれた愛を見ればすぐにわかるだろう。なにより、その愛はこの無情な現実の世界に生きる我々に向けられた愛なのだ。そんな彼だからこそ自らの鬼子でもあるこの作品を愛してしまうこともできてしまうのかもしれない。

そして、読み終えて思わず涙を流している自分に気がつくだろう。

・「自分を試される本
星5つにしたのですが、私は全部を読めずに途中で挫折して、最後の数ページを読んでしまいました。ご存じの方も多いかもしれませんが、爆笑問題の太田光さんが大変感銘を受けた本として紹介していて、「タイタン」という事務所の由来にもなっている本です。

・「傑作!
爆笑問題の太田光さんがTVで絶賛していたのをきっかけに読んだのですが、数年ぶりにめぐり合った大傑作でした。悪ふざけの軽いノリで、深遠な物語が進行します。コミカルな状況なのに決して甘っちょろい話ではありません。破産し、火星に誘拐され、命を落とす者、満身創痍の者、たった一人で惑星に暮らす者、登場人物達は、大いなる存在からなかなか辛い目に遭わされます。しかし、手のひらの上で登場人物達を翻弄していたはずの大いなる存在も、もっと大きな存在の手中にあった、と思ったら、その存在も、より大きな存在の気まぐれだか何だかに操られていたというような展開は、眉間にシワを寄せて「人生とは何ぞや」と堅苦しく悩みがちなタイプの人間に、すがすがしい肩透かしを食らわせてくれます。これだけさらりと実は哲学的な物語が描ける作者は素晴らしいです。ラストの「天にいる誰かさんは~」という名言と並んで、「借りちゃった、あ、テント!」という火星陸軍の素敵な行進曲が頭から離れません。

タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫 SF 262) (詳細)

異邦人 (新潮文庫)

・「異邦人…。
 カミュ自身、「異邦人」の英語版に寄せた序文で、次のように語っている。

「お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかにないということである。ムルソーがなぜ演技をしなかったのか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ」

 これが答えなのである。若いうち、特に青少年期にこの本を読めば、なぜムルソーがこれほどまで無関心でいられるのか、おそらくわからない。だが、成長する過程での長い時間と経験こそが、カミュの言わんとしたことを理解する手助けとなるのである。

 私も去年身内を亡くしたが、どれだけ絆の深いものでさえ、その死に直面してしまうと意外に淡白に感じられるものだ。葬儀や火葬、お通夜など、肉親の死であるというのに、冷徹かつ客観的に眺めている自分の姿がある。これは何も感受性に乏しくなったということではない。これが人間というものなのだ。

 その場所でのお悔みや親戚縁者の慰めなど、その場にいた私にとっては何の意味もなさぬものだった。それが泣きじゃくった司祭の姿を通してみればわかるだろう。神の祝福も懺悔も、ただの芝居にすぎぬことを。だからこそムルソーをいらだたせる。

 ただ淡々と進む別れと過去の思い出を頭の中で反芻し、そして自分なりに解釈を付けて死者を送り出す。だが、その情景は曖昧で繊細なものなのだ。ムルソーの、一見すれば主体性がないかのような受動的に見える思考や振る舞いも、それを如実に物語っている。そして、いずれは私もそのように送られることだろう。

 殺人を犯したのは「太陽のせい」と語った。しかしそう語る彼をだれが嘲笑うことができよう。地球上に降り注ぐ強烈な日の光こそが、彼が彼足りえる原動力となっていたのだから。

・「生きることへの違和感に素直に生きる男の話
異邦人を読んでいると、あることに気が付く。どこか、世界とムルソーとの間に隔たりがあるように思われるのだ。ムルソーは身に起こる多くのことに対し無関心である。ただ、淡々と目の前の問題に対処をしているだけだ。その代わり、彼は些細な自分の嗜好にとても実直である。彼は、よく眠り、よく食べ、よくタバコを吸う。隣人の恋のトラブルに対し興味を抱き、老人の小さな孤独の物語に同情をする。太陽に心地よさを感じ、そして、恋人との情事を喜ぶ。しかし、恋人が彼に自分を愛しているか。と聞かれると彼はわからない、と言い、結婚を求められてもお決まりの文句、<Cela m'etait egal.(どちらでも同じさ)>と受け流してしまう。彼は自分の人生に対する関心に欠けている。

シャンピニーは「異教徒の英雄論」の中で主張する。一方に、偽善的慣習や約束事によって成り立つ社会や宗教の「芝居的世界」があり、これはアンチ・ピュシス(反自然)でり、また一方では本来的な自発性に属するピュシスの世界があり、ムルソーはそれに従って生きている。「芝居的世界」を受け入れることを拒否するムルソーはそのために異邦人とみなされ、罪人の烙印を押されて死刑を宣言される。

物語のクライマックスであり一番の盛り上がりの部分である、アラブ人殺人の場面はあえて語らず、他のレヴュアの方に任せようと思う。フランス語の原文で読むとねちねちと皮膚に張り付いてくるような文体がこの場面の緊!張感をひしひしと高める。

私はカミュの特徴はその精緻な描写だと思う。読者は物語の始まりの部分からその孤独な老婆たちの描写に驚かされることであろう。この本は私がフランス語で読んだはじめての本であるが、フランス語で読むとまた、違った面白さが発見できると思う。作品自体そう長くはないし、フランス語も簡単なので試してみる価値はあると思う。

・「凝縮力をもった名作
所謂古典的名作と言われる作品には、そう呼ばれるだけの内容がある。カミュの「異邦人」は、中学生の頃読んでみたのだがさっぱりわからなかった記憶がある。あれから20年以上たった今読むとさすがにわかる。不条理に生きることの窮屈さが身にしみた年齢になったからだろうか。私も主人公同様20年ほど前に母親を無くしたが、長いこと一緒に住んでいなかったこともあって、あまり悲しくなく、葬式でも涙の一滴も出なかった。人間などそんなもので、自分の肉親の死よりも、飼い犬の死のほうが悲しかったりするものだ。主人公にとって、神や死後の神の祝福などは何の意味も持たない。死ねば死にきりなのだ。それを全うして生きられる人間は強い。翻訳もなかなか格調高いが、もうすこしこなれた日本語に出来るような気がする。

・「白い以上に白い、と語ることは虚偽である
白を黒と言うことはもちろん虚偽だが、白い以上に白い、と語ることも虚偽である。ムルソーは、私たちの言う意味で、母親や恋人を愛していないのではない。ただ、愛している以上に愛している、と口にすることを拒否しているだけだ。ムルソーは、過激なほどに、誠実に生きようとしている。

ムルソーは社長にパリ行きをすすめられるが、関心を示さない。彼にははじめから世間的な出世や野心などないのだろう。でもこれは私には、白くない以上に白くない、と語っているように見える。

カミュは貧民階級の出身である。幼い頃に父親を亡くし、母親は耳が遠くて文字を読むことはおろか日常会話にも不自由した。この母親に代わって子供たちを育てた祖母は、教育のためにムチを使った。カミュ少年は幼い頃から我桊??することを覚えさせられた。ーーただ貧しいだけで後ろめたい思いをすることを、貧しさを知らない人たちにどう伝えればいいのだろう、とカミュはどこかで言っている。

この、やがて時代を代表することになる感受性豊かな少年は、自分には世間並みの希望を持つことさえも禁じられていることを知っていた。イソップの有名なキツネは、高くて手の届かないところにあるブドウをスッパイのだ、と言う。カミュ少年は、手に入らないものは最初から欲しくなかったのだ、と考えることに慣れていた。

「言葉」には限界がある。つまり、言葉にすればすべて嘘になる現実がある。白くない以上に白くない、と語ることは、白い以上に白い、と語ることと同様、虚偽、である。だが、詩人たちはこの白を伝えるために言葉を捜し、画家たちはその色をキャンバスに移すために絵具を混ぜる。

天才とは嘘をつくことがもっとも苦痛な種族だ、と定義した人がいる。

・「名作たる所以
この作品の全ての内容は、カバーの後ろに書いてある作品の内容紹介にまとまっていると言っていい。しかも、この本の訳はお世辞にも読みやすいとは言えない。先の展開が知れていて、ついでに読みにくい本を読み進めていくのは、なかなか骨が折れることだった。しかも、僕はこの主人公の行動を全く理解出来なかった。まさしくそれこそはこの本のテーマの「不条理」だったわけだが、論理的に理解できない行動を書くことに意味があるのだろうかと疑問に思いながら読み進めていった。しかしこの本の最後の最後、僕は自分の考えが浅はかだったことを知った。最後に主人公のムルソーが明らかにしていく心中の告白。それが語られたとき、ムルソーの今までの行動が彼なりの理念によって一貫されたものだったということが明らかになり、そしてその時が僕の中でこの作品が一気に名作になった瞬間でもあった。彼の一見奇妙な行動と言動。それらはたしかに理解しにくいものだが、一つの真理とも言えるような説得力を持っているものだったのだ。彼の行動と理念を自分なりに理解した今も、それらを参考にして生きてみようなどとは微塵も思わないが、一度は触れておいても良いかもしれない。名作たる所以がわかるだろうから。

異邦人 (新潮文庫) (詳細)

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

・「世界は小説? 物語?
ああ、読んでよかった。有名な『百年の孤独』。ノーベル賞が、「世界的名作」という言葉が、重い。そんなわけで、読んだ人々の話を憎らしく思いながら、黙って聞いていたけれど。読み終わった今は、言える。これは、世界的名作の前に、最高のエンターテインメントだ。全然、重くない。楽しい。面白い。で、ついでになんだか世界の秘密に触ったような気になれる、すごい本だ。

とはいえ、正直、読み始めはかなりつらかった。

登場人物の名前が、ややこしい。お父さんのホセ・アルカディオ・ブエンディアの息子が、ホセ・アルカディオと、アウレリャノ・ブエンディア。そのまた息子が、アルカディオと、アウレリャノ・ホセ。ホセ・アルカディオ・セグンドとか、アウレリャノ・セグンドとかいう人もいた。こんな具合に、ブエンディアさんのお家は、こちらの都合もおかまいなしに、産まれた子供にどんどんおんなじ名前をつけていく。死んだ人も、普通にその辺をうろうろしているので、ますますわかりづらい。

時間の経過が、わかりにくい。時系列順に進んでくれない。この物語は、人だったり、出来事だったりを中心とした、エピソードが積み重なって出来ている。あるエピソードの途中で、「これはだれだれがなになにをしていた頃のことだ」、とか出てきて、別のエピソードと重なり合うことで積み重なっていく。気がつくと、いつの間にか時間が少しずつ進んでいるのだ。年号とか、基準になるものは全然でてこない。

ああ、もう! と思っているうちに、100ページを過ぎたあたりから、そんなことを気にしなくなりだす。すると、もう、あっという間。というのも、だんだん、ルールが、体で分かってくるのだ。

この本、「ガルシア=マルケス全小説」の中の一冊だけど、小説ではないと思う。物語だ。エピソードで世界をとらえるやり方は,小説よりも、物語のルールだ。ここでは、聞き手を飽きさせないことが何より優先される。流れを遮るものは、省略される。だから、正確な時間なんかはどうでもいいものなのだ。そして物語は、聞くものを飽きさせない細かいディテールで出来ている。だから、聞いたそばから忘れられていく。

きっと、人間は、小説が出来るずっと前から、こうやって、物語の目で世界を見てきたのだ。今の僕らは、小説のものの見方で世界を見てしまっていて、だから、家系図なんかを欲しがってしまう。物語には、こんなものはいらない。家系図は、この本を小説にしてしまうと思う。

物語は蜃気楼で、聞き終わったら、忘れられるもの。それが、寂しい。本当に、本を開いてマコンドにいる間は、それこそ自分が読者であることすら忘れてしまうのに。

でも、僕らの中には、漠然とした物語の輪郭が残る。世界を見る物語の目が残る。それが、本を閉じた今でも、もぞもぞうごめく。それが、新しい物語の芽になる。僕は、もう、間違いなくこの物語から産まれただろう物語を、いくつも思い出している。

・「世界文学史に残る傑作です。
 脱私小説という問題をいつまでも引き続けている日本文学とは対照的に、南米ではこんな物語が生みだされてるのです。あるひとつの村の一家の百年の興亡史ですが、骨太の物語なのに読みやすいのです。この読みやすさは異常だと思われますが、ガルシア・マルケスはおそらく読者の読むスピードを底上げさせるように文章を書いているんでしょう。それは物語の特性を考えてのことだと思います。 保坂和志は、百年の孤独ほど「小説というのは読んでいるその瞬間にしかその実体がない」ことをわからせてくれる小説はない、と言っています(ただし、家系図なしなら)。カフカの長編小説でもそうですが、怒涛のようなエピソードが壊れたピッチングマシーンから放たれるボールのようにぼんぼん投げこまれてきます。私たちはそれを読み、楽しみ、そして次の瞬間には忘れます。私たちは次のボールをキャッチしなくてはいけないからです。私はこの「忘れる」ということが、この小説のいちばん大事なところではないのかと思います。 この小説では、とにかく何もかもを忘れていきます。登場人物の名前がほとんど同じですので、誰が誰だか忘れます。誰がどんなことをして、そして死んでいったか、忘れます。私は読み終わったばかりなのですが、もう何が起こったのか忘れています。彼ら一族は小説のなかの世界でも、そして私たちからも忘れられます。 そして、私はその忘れられる過程(一族が滅びていく過程)にこそ、ガルシア・マルケスがテーマとした愛が見え隠れしているようにしか思えないのです…。

・「アゲイン、そしてまた
百年という歳月をかけて、人間は何を成しえるか。

20世紀と21世紀を比べると、あまりにも多くのことが変化、進歩したように思える。確かに、技術や文明は、百年前とは比べ物にならない。しかし、人間と、その心はどうだろうか。昔の小説を読んで人々が感動するように、歴史の中で同じ過ちが何度も繰り返されるように、不可逆的・直線的な文明とは違い、人と歴史は円環のようにぐるぐると回っている。

ブエンディア家は、百年かけて孤独の円環から抜け出す。メルキアデスの古文書の秘密を知るまで、愛によって子供が生まれるまで、なんと百年の歳月が必要だった。アゲイン、そしてまたアゲインと、まるでゲームのリセットボタンのように、符号がかちりとそろうまで、時間の円環は回り続ける。

多くの知識人や著名人が、この本を傑作と呼ぶのもうなずける。とにかくスケールがあまりにも大きい。目がくらむ。歴史は繰り返し、人は忘れていき、栄えるものは滅ぶ。そんな時間の物語は、読んでいる最中よりもむしろ、読んだ後にじわりと重さを増していく。

・「愛について
コロンビアの架空の開拓村における名家一族の物語。近代化を迎えた村の繁栄を背景にこの一族は豊かで子沢山だった時期もある。が、タイトルが示す通り、なぜか徹底して愛に恵まれない。100年以上かけて代替わりも数世代進み、やっと愛によって結ばれた夫婦に子供が生まれる「その時」。この最後数ページがクライマックスなんですが、そこまで延々400ページに渡って、時間と運命の円環構造の下で何人もの一族の人間(=みんな似たような名前!)が同じような悲喜劇的エピソードを紡いでいくんだけど、クライマックスに入って怒涛の速さで物語が収束していきます。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、このクライマックスの速度と収束感は、そこに至るまでの永久に続くんじゃないかと錯覚してしまうようなエピソードの集積の後だけに、かなり味わい深いです。

それにしても、各エピソードはユーモアに溢れてるのに、全部読み終わった時に、何でこんなに寂しい気持ちになるんだろう。

・「傑作
僕がこれまで読んだ本の中で、もっとも完成度が高く、印象も強い、ベスト1の小説。まず、これだけの内容を盛り込んでいるのにも関わらず、非常に面白い。そのストーリーテリングの巧みさ。眩暈を覚えるほど多い登場人物、そしてエピソード。その積み重ねがそれぞれ全て伏線をなしている。つまり、無駄なものが一切ない。読者はときにはうだるような悪夢や幻想にも引きずりこまれる。小説でなくては出来ない、小説的リアリティ。小説とはなんでもありなのだ。そして、もっとも唖然とさせられるのはラストである。そこで長い長い伏線が見事に生かされる。まさに百年の伏線。これほどのカタルシスが得られる小説も滅多にない。そして、その伏線を覚えている自分にも驚く。普通ならとっくに忘れていてもいい筈なのに。まさに、一度は読んでおきたい本。

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967)) (詳細)

伝奇集 (岩波文庫)

・「ボルヘス印全開の代表作
ボルヘスの最もボルヘスらしさが凝縮された傑作短篇集。とても短い短篇のそれぞれに無限の宇宙が封じ込められている。ボルヘスの幻想はイメージ先行ではなく逆説的なロジックや観念から生まれてくるところに特徴がある。またその恐るべき博識は言うに及ばず、宗教や古典文学の題材が多いことから難解で学者的な印象があるかも知れないが、実はこの人の小説は徹頭徹尾遊びだというところに最大の魅力があると思う。縦横無尽に引用されるテキストやその出典は必ずしも真偽が明らかではないし、お得意の架空の小説の書評その他のメタフィクショナルな仕掛けもきわめて遊戯的。「数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」というボルヘス世界の本衊??はその外観に反してとことん軽やかなのだ。

彼の小説は物語ともエッセーともつかないような体裁をとることが多いが、この短篇集には究極の幻覚的エッセー「トレーン…」からポーを思わせる完璧な小宇宙「円環の廃虚」まで、典型的ボルヘス作品がずらりと並んでいる。すべてのボルヘス作品のメタファーのような「バベルの図書館」やもう一つのボルヘス的テーマである無法者の決闘を描いた「結末」も素晴らしいし、「死とコンパス」の超絶的幾何学ミステリも楽しい。読めば読むほど無限に広がっていく魔法の一冊。

・「この素晴らしい新世界
アルゼンチンが生んだ今世紀最大の幻想作家ボルヘスの 文字通り代表作である自選の短編集。文学の豊富な知識 を背景とし、哲学的宗教的テーマを縦横に援用しながら 彼独自の幻想文学を見事に織り上げている。あまりに 著名な、また至極現代的にインターネット空間の隠喩と 読み取る新たな解釈も新鮮な「バベルの図書館」、

パロディーとしての書評「アルムターシムを求めて」、 物の名前が*存在しない*新たな世界との出会いを探偵 物仕立てで描く(しかも主人公がボルヘス本人である!) 「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」 等全17篇収録。

・「まずこの一冊
ボルヘスといえばまずこの一冊。値段もお手ごろで収録されている作品も粒ぞろいです。なかでも「死とコンパス」は必読。ミステリー仕立ての味わい深い一品です。

・「落ち穂拾い
unoさんのレビューで、既にボルヘスの魅力は語り尽くされていそうなので、まだ話題にのぼっていない作品の落ち穂拾い(笑)

ぼくが特に好きなのは、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」と「記憶の人、フネス」

「ドン・キホーテ・・・」は、現代において、ピエール・メナール氏が、ドン・キホーテをもう一度書く、という話。

パロディーにするわけでも、書き写すわけでもなく、一言一句まったく同じドン・キホーテを、新しく書く、わけです。

ただそれだけなんですが、作品の最後に『「キリストのまねび」をジョイスやセリーヌが書いたと思えば、その作品にはまったく新しい意味が生じる』といったことがサラっと書いてあってボルヘスの文学観が鮮やかに浮かび上がる仕掛けになっているわけ。

「記憶の人、フネス」は、一転して笑える悲劇。

落ち葉一枚一枚の葉脈の模様まで鮮明に記憶して忘れることができないフネス氏のお話。このフネス氏、記憶力が良すぎて、昨日のAさんと今日のAさんを別人としてしか認識できない。皺の本数とかが違うからフネス氏にとってはまったくの別人なわけです。もちろん、深読みしたいひとは、人間のパターン認識の精妙さとかに感じ入ったりもします。

などなど、ボルヘスの短編はどれもこれも何度でも読み返す価値のある傑作ぞろいなので、難解そうだと敬遠せずに、是非。

・「無限の迷宮
おそらくこの作家の短編集の中では一番、密度が濃い短編集だと思います。一つ一つの短編が非常によくできていて何度も読むとさらに理解や発見が広がり一冊だけでとても長く楽しめます。この作家の短編集は不死や連続といった無限性がテーマになっている作品が多いです。ひとことであらわすと迷宮といわれる所以でしょう。

伝奇集 (岩波文庫) (詳細)

西瓜糖の日々 (河出文庫)

・「詩的で、不思議にリアルな寓話
20年以上も前に単行本で読み、それ以来、ずっとマイ・オールタイム・ベスト20の1冊。どんな具合に好きだったのか忘れていたが、文庫化された本を読んですぐにわかった。

「いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから」

これが本書の始まりの文章。見事だと思う。そうかもしれない、と思う。ぼくも、かつては西瓜糖の世界で暮らしていたのかもしれない、と。それはとても素敵なことだったのかもしれない。そして、いまは遠くにいるのかもしれない、と。自分にとって大切なことを思い出させてくれる本、だと思います。

・「何だかわからないけれど、素敵
~四半世紀ぶりに、(そして今度は初めて日本語で)読み返してみて、やはり、「何だかわからないけれど、素敵」だとおもってしまいました。

当時私がこの本を、そして著者の書いた他の本をとったのは、英語が簡単、そして長くない、というのがその理由だったけれど・・・、非常に平易な文章でこれだけの世界を作り上げられるのか、とびっくりしたものです。$N~~$彼がこの本での書いた世界を無理に例えて言えば、モロッコのマラケシュや、ネパールのカトマンドゥ、はたまたペルーのクスコなどでしばらく沈没して、その街の物語にとけこんでしまったときの感覚と言えば、言えるのでしょうか。

村上春樹、村上龍の両村上をはじめとして、日本の現代文学にさりげなく大きな影響をあたえているリチャード・ブローティガ~~ンの本を是非読んでいただきたいとおもいます。しかし、初期の代表作である「Trout Fishing in America(アメリカの鱒釣り)」、「Abortion(愛のゆくえ)」とこの「In Watermelon~~ Sugar(西瓜糖の日々)」以外の作品は、日本でもアメリカでもあまり読むことができない現状はさびしい限りです。やはり、80年に登場したレーガン以降の強きアメリカを無理でも標榜する時代と確執があるのかもしれません。(さて、半日かけてでも、押し入れのなかにねむっている、彼の書いた作品たちをひっぱりだしてくるかな・・・。すでに黄ばんではいるだろう~~けれど)

この作品は中沢新一氏の「緑の資本論」など一連の対称・非対称を論じた本とあわせ読むと面白いかもしれないと感じました。~

・「そんな場所は存在しない
まずは藤本和子さんの訳が素晴らしい。日本語の文章としてとても美しい。ブローティガンの作品の中では物語の比重が大きい作品のように思うが、この文体を味わうだけでも十分に快楽を得られる。

『アメリカの鱒釣り』が有名だが、今ならばこの小説が一番支持されるのではないかと思う。村上春樹の小説を読んでいる人ならばこの小説の孕む憂鬱の心地よさにはすぐに馴染むことができるだろう。

幻想的な美しさを湛えた作品だが、底流を流れるのは作者の深い絶望感だ。一見ユートピアのような舞台で紡がれる日々の出来事は、結局は疎隔感ばかりを浮き彫りにする。尽きない逃避への誘惑が、記憶の隅々までを甘い絶望で染め上げる。きっとブローティガンは主体の死んだユートピアを否定しながらも、なおその場所に惹かれつづけていたのだろう。

ユートピアという言葉は「そんな場所は存在しない」という意味のギリシア語である。存在しないことを知っているからこそ、西瓜糖の世界は一層その暗い輝きを増す。

・「忘れようとしても思い出せない
自分達がどこから来たのか思いださないようにすること、特定の事を忘れ続けようとすること。その微妙な平衡で維持されているアイデスという不思議な世界の話です。色の変わる太陽に虎に鱒にガラクタの山。すべてのものがかつてあった世界の、記憶の下に押し込められた何かの象徴のようだけど、何の象徴かはわからない。

アイデスの住人達のもやのかかったような奇妙な感覚を味わえます。彼らを我々日本人と比べてしまうのは野暮な読み方でしょうか、、、

・「自然から哲学が生まれる。
自然の中から哲学が生まれる。そんなことを話すと、恥ずかしいような気がしますと語る、美術家・永井宏が愛したリチャード・ブローティガンの詩集です。 きっと誰もが抱く、気持ちのいい日常の暮らし方。そんな素敵な生活を日々楽しむ一人の美術家とリチャード・ブローティガン。そんな二人に憧れ、良質な生活を追い求める私。風通しのいい生活は、すぐそこにあるのかも知れません。

西瓜糖の日々 (河出文庫) (詳細)

審判 (岩波文庫)

・「社会の「しかけ」
「裁判所の実体は、たくさんの精巧なしかけの中に見えなくなっているんですが、万事このしかけしだいなんですからね」(本文より)

道端で出会った人が、自分の名前を知っている。自分が裁判にかけられていることも知っている。そんな状況は、普通に考えて明らかにおかしい。しかし、おかしいことが説明もなしに続いていくと、だんだんそれに慣れて受け入れ、疑問に思わなくなってしまう。それが怖い。

主人公Kは、しかけの犠牲者である。社会のしかけは人が作ったものであるはずなのに、人が立ち向かうのはあまりにも困難になってしまっている。この小説には、全体を通して形の見えない、しかしとてつもなく大きく見える不安がある。何かが根本的におかしくて、不安はどんどん大きくなっていくのに、いっこうにその正体がつかめない。

形の見えない不安と、無限ループ。解釈の余地は無限にある。

・「驚愕
 外国人の作家の小説を殆ど読まない私だが、これは一ページ目からどっぷりハマった。物語の一番大事なことを書かないままその周りの細かい情報だけが埋め尽くされていき、独特のリアリティを保ったまま、ラストを迎えるに至る。 こういった手法は一歩間違えばコントになってしまうようなものだが(ツッコミがいればなおさら)、様々なテーマを巻き込みつつ渦を巻くように進んでいくストーリーには背筋が震えるほど圧倒された。これこそが文学といってもいいのではないか。 多分何十年経っても、カフカは色褪せない。そんな気がする。

・「最高傑作
 読むたびに凄い、と思う。登場人物の不思議な生々しさや生き生きした感じと、官僚組織的冷たさや拘束感との同居。おかしさ・滑稽さと悲哀・残酷との同居。平凡さと奇妙さとの、日常的なものと普遍的なものとの同立。あらゆる解釈を可能にしながら、しかもこの小説自体は変わらない。一体こんな小説があったものだろうか。

 作品の素晴らしさは読めばわかるので、余談をいくつか。・しばしば世間的立場から「へなちょこ」扱いされることもあるカフカだが、仕事場ではかなり有能だった(もっとも、本人はうんざりしていたようだが)。また彼は保険協会の年次報告に毎年のように寄稿し、機械の安全な扱い方について説明するなど、労働現場の環境にも目を向けていた。(ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』によれば)工事現場で使われる安全ヘルメットを発明したのもカフカであるという。保険金の査定や労働現場の査察を行うなかで考え出したのだろう。・『審判』執筆に挫折しかけていた際、絶望のためか自暴自棄か何か理由はわからないが、カフカは徴兵検査を受けたという(当時は第一次大戦中だった)。合格したが、動員はされなかった。・書いたものを出版しようとしなかったカフカだが、『火夫』などについては自分で出版のための努力をした(友人の書いたものを出版しようとするほうがずっと多かったが)。だがほとんどの作品は出すことなく、ひたすら書き続けていた。なぜ出そうとしなかったのかは未だに謎である。

・「20世紀文学の金字塔
カフカの最高傑作。読めば読むほどその面白さとカフカの類希なる人間と人間社会への洞察力を感じ取ることができる。分量こそ少ないが、プルーストの「失われたときを求めて」とジョイスの「ユリシーズ」と並ぶ20世紀文学の金字塔。しかも、他の2書より遥かに読みやすい。是非、一読を。

・「読む人に色々なことを考えさせてしまう作品
ヨーゼフ・Kは何も悪いことをしていないのにもかかわらずある日突然逮捕される。彼を逮捕に来た役人もKを逮捕するだけが仕事でどういう理由で彼を逮捕するかは知らない。逮捕されたKは裁判にかけられるのだが、裁判はアパートの一室で行われる。そして単なる傍聴人と思われた人々も裁判所の予審判事と同じバッチをつけている。裁判所の実態もよくわからない。

逮捕されたもののKは投獄されるわけではなく日常生活は自由である。彼の前には弁護士、裁判官の肖像画を描く画家、叔父、牧師などが次々と現れ、彼にアドバイス(説教?演説?)を長々と述べるのだが、そのアドバイスは法律の中には一般の人には見えないものがある。法律より大事なのは裁判所へのコネである、というものである。そして、あなたを助けることが出来るのは自分だけだと言ったりもする。

結局Kは、これもある日突然家に役人が訪れ、石切り場に連れて行かれてから首をはねられるのだが、その役人も何故Kの首をはねるのかは知らない。

‘41年頃書かれたこの作品は、後のナチス登場に象徴される次代の精神状況を予見した作品と言われている。そう言われれば確かにそうであるのだが、この作品の多くを占める、Kにアドバイスを述べる人物達の話を読んでいると、本当にそれだけか?と思ってしまうのである。しかし、それが何であるのかは難しすぎて何度読んでもよく解らない。

そして、何とかしようと努力はするものの裁判のあり方自体に疑問を持たず、最後は素直に殺されてしまうKもただの被害者ではなく、権力には従順な庶民の愚かな姿の象徴なのかなとも思ったりするのだが、これもよく解らない。

とはいえ、私は何故か読むのに骨の折れるこの作品が面白くて何度も読んでしまう。不思議である。人に何かを考えさせる小説とはこういうものなのかもしれない。

審判 (岩波文庫) (詳細)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

・「旧訳と新訳の両方を読んで
旧訳と新訳の両方を読みました。私は村上春樹の作品が大好きで、村上氏がエッセイか何かでこの「ライ麦」に触れていたので、興味を持ち読みました。私は、最初に村上氏の翻訳を読んだのですが、読み始めの方が少し「ぼやっ」としているように感じられ、私的コールフィールドがなかなか確立してくれませんでした。そして、全体を通して、村上春樹作品が大好きな私には、これは村上春樹的世界のコールフィールドだと感じられました。

けれど、作品自体はとても素晴らしいもので、ある一定の年齢になると多くの人が感じるであろう、大人社会に対する「反抗」をとても絶妙に書き表してくれていて驚きました。

村上氏の翻訳を読んでみて、旧訳にも興味を持ち読みました。旧訳は、一度新訳を読んだためかもしれませんが、非常にテンポよく読むことができ、そしてそこには、私のイメージしていたコールフィールドがいました。

この作品は本当に素晴らしい作品です。これから読まれる方は、どちらか片方だけでなく、両方の訳を読んで、比べて、自分に合ったコールフィールドを見つけて欲しいです。

・「青春小説の傑作
話の展開を一言で言えば、学校の偽善的な人間が嫌になった主人公が家に帰る話だが、今まで読んだ本のどの登場人物よりもホールデンは魅力的。半分大人で、半分こどもの彼が、大人のインチキな世界からこどもを守るライ麦畑の捕まえ役になりたいというところは何度読んでも微笑んでしまう。最後にホールデンが涙を流しながらメリーゴーランドに乗る妹を見守るシーンに限らず、所々で色んな解釈が可能なので、色々考えながら読むのも面白い。大まかに言えば、個人的にはホールデンのアイデンティティーの確立の話だと思う。

・「大人社会に疑問を持っている人へ
JFK、J.レノンを暗殺した犯人がポケットに入れていたという、いわくつきの小説。 高校を退学させられた少年・ホールデンが、大人社会をラップ調で痛烈に批判する。この作品の特徴は、50‘S米国の汚い若者言葉が連発されているところであり、それが発刊当初、図書館に置いてもらえなかったという理由の一つである。ホールデンの将来の夢は、一面に広がるライ麦畑で、どこを走っているのかわからず崖から落ちそうになる子どもたちをつかまえる役―"the catcher in the rye"――になることだったが、このryeは、嘘の多い大人社会という意味で、lieと韻を踏んでいると考えられないだろうか。あてもなく街を彷徨い、嘘ばかりの大人社会に片足を踏み入れて、誰かにつかまえて欲しいと願ったのは、本当は彼自身だったかも知れない。 物語とは関係ないが、これは本として装丁が非常に良い。外国のペーパーバックサイズで、帯を外すと、ピカソの絵が出てくる。それは落書き風の、泣いているのか笑っているのかわからない表情の顔である。

・「アメリカ社会の幸福幻想に冷や水を浴びせる
自分自身でありたいという欲求。自分ã‚'あるがままにå-ã'å...¥ã‚Œã¦ã»ã-い、という思い。The Catcher in the Ryeになりたいのではなくて、そã‚"な存在に自分がå-ã'とめてほã-い、というæ•'難信号。何がã-たいのか、何ができるのか。ã"のä¸-界で、自分のå '所ã‚'見出だã-ていない、また見出ã-å¾-ないのではないか、という切実な不安感。感å-性の強い、å°'å¹'に特有のæ½"ç™-さ。そã‚"なやりå 'のない感æƒ...の塊りが、ホールデンå°'å¹'の、æ€'りに満ちたスラングとなって飛び出ã-てきます。

ホールデンå°'å¹'は、「セントラルãƒ'ークのアãƒ'ルは冬になって池が凍ると、どã"に行くのか?」、という問いã‚'繰りè¿"ã-投ã'かã'ますが、そã‚"なとã"ろから、彼の孤独感と、助ã'ã‚'求める悲ç-›ãªå«ã³ãŒä¼ã‚ã£ã¦ãã¾ã™ã€‚

ã-かã-、それだã'なら、アメリカのとã"ろどã"ろで発行後50å¹'も経った今も禁書扱いにはされないでã-ょう。ã"の本の恐さは、その言è'‰é£ã„の!ためなã‚"かではなくて、アメリカ社会が持つ幸福幻想みたいなものに、真っå'から冷やæ°'ã‚'æµ'びせるå†...容だからじゃないかと思います。エスタãƒ-リッシュメントのå'に属ã-、ãƒ-レッãƒ-・スクールに行くようなお坊ちゃã‚"が、å±...å '所のなさã‚'感じているなã‚"てありえない、あってはいã'ない、あっても認めない、というようなæ‹'絶反応がã"の本ã‚'禁書にã-ているのではないでã-ょうか。そã‚"なアメリカのé-‰å¡žæ„Ÿã‚„偽å-„性ã‚'描き切ったサリンジャーは、結局アメリカ社会と訣別ã-て自身隠遁ç"Ÿæ'»ã«å...¥ã£ã¦ã-まいまã-た。

社会が成熟すればã"そ、それに適応できない人がå¿...然的に出てくる。そã‚"な現実ã‚'正面から見据え、ã-かã-安æ˜"にæ•'いや解ç­"ã‚'出さずにã-らっとã-た筆è‡'で問題点ã‚'指æ'˜ã™ã‚‹ã«ã¨ã©ã‚ãŸæœ¬æ›¸ã€‚ä¸-界中でロングセラーとã!ªã£ã¦ã„るゆえã‚"はそã‚"なとã"ろにあるのではないでã-ょうか。

・「青年文学を超えて
この本は知的な青年の多くが経験するであろう疎外感を巧みに表現していて、特に最後に近い章では涙を誘う物語である。しかし、ただの青年文学として位置付けられるものでもない。ホールデン少年の感性は、大人になった我々に、今をよりよく変えようという力を与える。いつページを開いても、やさしい気持ちと希望を与えてくれるのである。

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス) (詳細)

死に至る病 (岩波文庫)

・「理解できるとうれしい
「絶望」の意味を理解できるとうれしい。まあ自分で分かった気になるだけでもいいんですが、何日か考えて、そのうち「分かった」となるとうれしい本だと思います。でも何日考えても分からないかもしれないし、分かる人には読んだ即座に感じるところがあるかもしれない。

誰もが一度は触れて損はない名著だと思う。

自意識をここまで追求し、解剖できる人はそうはいないでしょう。彼に言わせれば「自殺者」は絶望の段階としてはまだ低い。自己に絶望しつつもさらに自己であろうとすることが最高度の絶望。

・「この病は死に至らず。ーーヨハネ11・4
本書は「死に至るç-...とは絶望である」及び「絶望は罪である」の2編からなります。キルケã‚'ールによれば、絶望とは、かかったã"とがないã"とが最大の不幸であるようなç-...であり、かつ、ã"れからç™'されるã"とほどキリストè€...にとって幸福なã"とがないようなç-...です。

すべての人é-"は、たとえ本人がそれã‚'自覚ã-ていなくても絶望ã-ています。そã-て、自覚のあるå '合にも、絶望ã-て自己自身であろうと欲ã-ないå '合、と、絶望ã-て自己自身であろうと欲するå '合、があります。本書のクライマックスは、後è€...の分析にあると思います。ーー人は苦ã-ã‚"でいるからといって、æ•'いの手ã‚'å·®ã-伸べてもå-œã‚"で身ã‚'å§"ねるとは限らない、とキルケã‚'ールは言います。絶望が頂点にé"すると、彼はå¤-見ã‚'ã"とさら無造作にè£...い、できるだã'無意å'³ã§äººç›®ã«ã¤ã‹ãªã„ものにã-ようとする、絶望からç™'されようとせず、むã-ろ反æŠ-ã-、永遠にその苦ã-い状æ...‹ã«ã‚ã‚‹ã"とã‚'引きå-ã'ようとする、「タンタロス」のようにーー。ã"のタンタロスã‚'シーシュポスと言い換えれば、ã"ã"で分析されているのは、たとえã!°ã!!‚«ãƒŸãƒ¥ã®ãƒ ãƒ«ã‚½ãƒ¼ï¼ˆç•°é‚¦äººï¼‰ã®ã‚ˆã†ã«äººç‰©ã§ã™ï¼ˆã‚¸ãƒ©ãƒ¼ãƒ«ï¼‰ã€‚私はã"の心理分析は、ドストエフスキーの描くイワン・カラマーゾフやスタãƒ'ローギン(悪霊)にもå½"てはまると思います。ドストエフスキーは本書ã‚'読ã‚"でいませã‚"が、高く評価ã-たと思います。では、キルケã‚'ールã‚'読ã‚"でいた筈のカミュは、ã"のような指æ'˜ã«ã©ã†ç­"えるのでã-ょうか? 

キリストè€...とã-てのキルケã‚'ールの結è«-は、次のようになると思います。ーー罪は認識にではなく、意å¿-にある。正ã-く理解ã-ないã"と、ではなく、理解ã-ようとã-ないã"と、が罪である。信仰とは、神ã‚'æ­£ã-く認識するã"とではなくて(神ã‚'知るã"とは不可能です)、神ã‚'信じようとする意å¿-である。となると、<理解>はできても<意å¿->するã"とができないムルソーや私(たち)は、やっぱりーー?

・「宗教宣言
序で著者自身が述べているように、本書の論述は必ずしも哲学的でなく(時に詩的、時にはユーモラス)、それでいて哲学的(過度に飾らない、十分に整理されている、明晰)。主題についても同様。苦痛なく読める。

1849年、『共産党宣言』の翌年に発表された本書において、キルケゴールは「絶望=神によって根源的に基礎付けられるような自己からの疎外」という定式化のもとに、キリスト教的な立場で、絶望と信仰の問題について論じた。

第一篇「死にいたる病とは絶望のことである」においては、著者自身の深刻な内的経験を感じさせる人間的な語り口で、絶望、絶望する/した自己の緻密な分析が展開される。第二篇「絶望は罪である」では、ドストエフスキーに通じるような問題設定で、絶望=罪―信仰―救済という弁証法的(教義的)な図式を軸とするキリスト教理の原理的な追求がなされる。

キルケゴールの主体的な問題意識は、実存哲学への契機となったと評価されているが、実存哲学で語られるような、無機質で、寄る辺ない、絶望的な自己への断崖を背にして、キリスト教的な「神秘のヴェール」に積極的(絶望的?)に救いの可能性を求める「倫理的な」立場を厭わない、本書での、彼のキリスト者としての思索の姿勢に、個人的な共感を覚えた。

聖書由来の表現などについては逐次、必要十分な注釈がなされていると感じた。

・「キリスト者を目指すための書
 本書が名著であることは間違いない。それは誰でも読めばわかることである。しかし、本書を哲学書として分類すると、誤解することになるだろう。キェルケゴールは、まず信仰の人であり、キリスト者であることを望んでいた。本書もそのために書かれたのである。どの文を読んでも、彼の信仰への熱い情熱と、社会への鋭い批判が伝わってくる。

《キリスト教は、この個体的な人間が(したがってすべての個体的な人間、彼が日常どんな人間であろうと問題ではない、――男・女・下女・大臣・商人・床屋・学生等々)、この個性的な人間が神の前に現存していることを教える。彼がその生涯にたった一度でも帝王と話したことでもあるとすればおそらくそれを誇りとするであろうところのこの個体的な人間、もしも彼が少しばかり高貴な地位にある誰彼と親しい関係にでもあるとすればそれを少なからず得意とするであろうところのこの人間、――この人間が神の前に現存していて、彼の欲するいかなる瞬間にも神と語ることができ、そして確実に神から聞かれることができるのである、要するにこの人間に神と最も親しい関係に生きるように申し出られているのである!》

・「絶望する者よ、キリストのもとに来たれ
 まず本書の内容を要約する(以下、頁数は1957年改版による)。「死に至る病」は、身体における致死性の病等のことではなく(15-16頁)、「精神における病」である(20頁)。だが精神における病といっても、いわゆる「とても落ち込んでいる状態」を指すのではない。そうではなく、人は自分自身と神とに立ち帰っていないことによって、この病に罹る。もし人が真に自分自身と神とに立ち帰っているならば、この病から完全に解放されている。 ところで、「自分自身と神とに立ち帰る」とはどういうことだろうか。新約聖書ルカ伝15:11-32に、「放蕩息子」というキリストの譬話があるが、以下、その内容に沿って説明を試みたい。この譬話で注目すべきは、放蕩息子は「自分自身に帰って」(15:17)おり、なおかつ「神に立ち帰って」(15:18)いることである。精神たる人間は、自分自身に関係する、自己意識をもつ存在である(20-21頁)。同時に永遠への意識を持つ存在である(旧約聖書 伝道の書3:11、20頁他)。そこで虚無感や、あのことこのことについての絶望は、実は絶望の根本原因ではないことに思い至らなければならない。根本原因は、人が永遠なる神から離れており、なおかつそのことの重要性を認識していないことにある。ゆえに人は絶望し、死に至る病にかかっている(ルカ15:17)。そこで人は「自分自身に帰って」、自分が「父の子」であることを思い起し、父なる神の元に立ち帰らなければならない。そうするときに、絶望から完全に解放される(22-23頁、215頁他)。 最後に、私自身の感想を記す。私自身、著者キルケゴール同様に虚無に苦しんだ。そしてキルケゴール同様に、虚無の癒しはある、そしてそれはキリストの元にのみあると信じる。自身の感じた虚無感は、神から離れている、という絶望の自覚症状の表れに過ぎない。神には一切が可能である。自分自身に立ち帰り(悔い改め)、神に立ち帰る時(信仰をもつとき)、一切の絶望が癒されると信じる。

死に至る病 (岩波文庫) (詳細)

火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1)

・「余韻が後を引くラストの反転の妙。魅了されました
 「妻は、17世紀の毒殺魔ブランヴィリエ侯爵夫人の生まれ変わりではないか」という主人公の疑惑が全編を覆う、怪奇色の濃いサスペンス・ロマンの名品。現在の景色に、次第に過去の光景が二重写しのように重なっていく、そうした怪しい雰囲気の醸成に独特の旨味がありますね。 そして、何と言っても忘れがたいのが、ラストの後を引く余韻。絵柄がくるりとひっくり返るような反転の妙。ここは魅了されましたねぇ。素晴らしい味わいがあります。 余談ですが、カーのミステリには面白い作品がまだまだあります。本書で終わりにしてしまうのは、あまりにももったいない。『白い僧院の殺人』『緑のカプセルの謎』『曲った蝶番』、それに中篇「妖魔の森の家」などは面白いですよ。こちらもぜひ、読んでみてください。読者をびっくり仰天させたい、そんな作者のショーマンシップ精神に触れて、わくわく、楽しんでみてください。

・「出来れば予備知識無しで読んで欲しい
傑作の誉れ高いカーの代表作。途中無駄な描写などで退屈する部分もありますが、それが最後の謎解きに利いていきます。特にそのストーリーテリングは絶品で、章の最後にちょっとした(とても大きな)サプライズがあるので読むのをやめられません。ラストについては、語るのをやめましょう。こんな古い作品でも、いまだに新鮮な驚きがあります。

・「読み方によって感じ方も変わる
ゴシックホラーだと思って読めば随所に怖がらせの効いた、良質のホラー

ミステリと思えばきちんと伏線のはってある、典型的本格もの

光の当てる方向によって作品の内容が変わってくる技巧の極致といえる作品です

・「この大胆さ
私がカーの作å"ãŒå¥½ããªã®ã¯ã€é¢¨å'‚敷の広ã'æ-¹ãŒçµ¶å¦™ã ã‹ã‚‰ã§ã‚る。とにかく、背筋がぞっとするような事件が、妙に歪ã‚"だリアリズムの筆è‡'で眼前に迫ってくる。ã"れがたまらない。とにかくå...ˆã«å...ˆã«ã¨èª­ã¿é€²ã‚ã¦è¡Œã‹ãªãã¦ã¯æ°-が済まなくなる。

まぁ、風å'‚敷の畳みæ-¹ã®æ-¹ã¯ã€ã€ŒãŠã„おい、それはちょっと無理があるぞ」という時もないわã'ではないのだが、それに目くじらã‚'たててã-まう人はカーにå'いていないというã"とだと個人的には思っている。

カーには、ä»-に「三つの棺」なども名作もあるが、火åˆ'法廷も一ç'šå"ã®ä¸­ã«å...¥ã£ã¦ã„るのはé-"違いないだろう。読è€...ã‚'わã-と混乱させるような、悪æ-‡ã‚‚どきも、カーの十å...«ç•ªãªã®ã§ã€èª­ã¿ã«ãã„と思うã"ともあるかもã-れないが、最初の数ページã‚'æ°-合いでä¹-り切れã!°!!、あとは流れるように最後までたどり着ã'るだろう。

・「カー+E.クィーン+H.マクロイ=火刑法廷 ?
カーの不可能味とオカルティズムが融合した奇跡的傑作。

主人公が通勤電車の中で見た数百年前の女性毒殺魔の写真の顔が、妻にソックリな点に興味を覚えた時点から物語は始まる。この後、主人公の周りでは不可思議な事件が続くのだが...。

カーの多くの作品に見られる竜頭蛇尾の感じは全くない。その逆で、計算し尽くされた精緻な構成・人物配置・伏線の張り方は驚嘆の的。カーとしては分量は少ない方だが、その中に自身の作風に加え、E.クィーンの論理性とH.マクロイの味をプラスしている想像を絶する出来栄え。再読すると、初読の際に気付かなかった細部の技巧に気付き、驚きは増すだろう。

カー・マニアは勿論、一般のミステリ・ファンにも絶対お勧めの一作。

火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1) (詳細)

グルーム (文春文庫)

・「傑作
これは殺人の物語です。実に、あっけなく人が死にます。警官も出てきます。赤毛の美人刑事が事件を追います。日本では、ミステリー小説に分類されているようです。犯人はすぐにわかりますが、それでも読まずにはいられません。登場人物はほとんどいかれた人ばかりですが、かれらを狂わせているのは、重すぎる現実です。

現実と折り合えない人間がいるとしたら、人間よりもずっと、現実の方がおかしいことだってあるのです。苦笑しながら、作者は語っているようです。ストレートなメッセージはありません。だからこそ、自分の限界が試される小説です。

・「暗黒小説
 チョコレートを食べ続ける警察官、イカレた主 人公に恋する女警官、息子を溺愛する母親、パラノイアの「ぼく」……。 登場人物全てが狂っている倒錯暗黒小説。オススメです。

・「サイコ野郎を笑い飛ばせ!
正統派のサイコホラーだと思って読んでみたが、変に笑えるところが多い。トラウマを持ち息子がなにより大切、というサイコ犯には定番の母親は主人公を子供みたいに扱って、緊張感がない。空想上の世界に遊ぶ青年は異常なのだが、空想の宿泊客にコーラを注文されて、自宅の冷蔵庫から持ってくる主人公に読んでいて恐怖を覚えるわけもない。空想上では少年になっているので母親と口論する口調も子供だ。母親もいい年の息子を子供扱いしてるから、変にバランスが取れている。中盤から登場する女刑事と仲の悪い上司のやりとりを読んで、この本は登場人物が全部ふざけていると判明。始めから馬鹿小説だと思って読んだほうが楽しめると思います。

・「P-FUNKファンに。
 サイコものではよく、主人公を狂気の淵に誘うアイテムとして、ロックやクラシックなどの音楽が出てきますが。

・「ファンク!
ファンクなサイコ小説、しかもフランス?ヘンな小説ですよね。なんとなく古臭い感じしたら、オリジナルの出版は結構前だったんですね。納得・・・

アメリカのスプラッタなサイコ小説に比べると、フレンチテイストでお上品。でもどこかヘン。そうかボリス・ヴィアンの「墓唾」を読んだときと同じ感覚かあ・・・・

グルーム (文春文庫) (詳細)

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))

・「転落人生
 あまりに傷つきやすい主人公‘葉蔵’は、「道化」を演じることで自分を傷つけずに他人にかかわる術を身につける。社交辞令や愛想笑い・・・繊細な心を自身が傷つける。その苦痛を酒や女で紛らわす。弱い人間だ。だが、徹底的なほど自分に誠実な人間は確かに弱いが、「めしが食えたらそれで解決」という人間と、常に自分が見え過ぎる人と、どちらがより「人間」らしいか・・・ 重たいテーマを突きつけられた。

・「自己矛盾に立ち向かい、敗れた人、太宰治。
中学生の頃初めてこの本を読んだ時の衝撃は今もはっきりと記憶に残っている。人生に対する不安や恐怖というものをこのとき初めて感じた。そして心密かに「自分は必ず人間として合格する」と誓い、不安感の払拭につとめた。

太宰が死んだ年と同年代になった。40年の人生、自分なりには様々なこともあった。そして、先日四半世紀ぶりにこの本を再読した。すると、中学生のころ初めて読んだ時に感じた不安感、恐怖感は全く消失していた。神経が図太くなったのであろう。同時に太宰という人の繊細さを痛烈に感じた。僕らはいつの頃からか人生の様々な自己矛盾に目をつむり頬かむりを決め込んでいる。。我々凡人はそうせざるを得ないのだが、全くの無自覚は罪悪であると感じた。人を傷つける事につながると思った。

太宰はそうした自己矛盾に正面から立ち向かい、耐え切れず破滅した。自己矛盾に立ち向かおうとしたがため、繊細な太宰はかえって自己矛盾を増幅させ破滅に至ってしまったのではないか。

太宰は漱石、藤村、志賀直哉など多くの諸先輩には懐疑的だったが、森鴎外を敬愛していた。ゆえに太宰の墓は生前の希望で鴎外と同じ禅林寺の鴎外の墓の向かいに建っている。太宰は、鴎外が