ヘンデル:クラヴィーア組曲 (詳細)
キース・ジャレット(アーティスト), ヘンデル(作曲), ジャレット(キース)(演奏)
「先入観念のないすばらしいヘンデル」「やわらかく、美しい音色」「すばらしい透明な美しさ」「キースのクラシックに感じる音楽の喜び」「キース・ジャレットがピアノで弾くヘンデル」
バッハ:フーガの技法(紙ジャケット仕様) (詳細)
グールド(グレン)(アーティスト), バッハ(作曲)
「グールド唯一のオルガン演奏」「オルガンの演奏だけでは物足りなさを感じる。」
バッハ:小プレリュードと小フーガ集(紙ジャケット仕様) (詳細)
グールド(グレン)(アーティスト), バッハ(作曲)
「小品を光り輝かせる才能」
バッハ:パルティータ第3番&第4番(紙ジャケット仕様) (詳細)
グールド(グレン)(アーティスト), バッハ(作曲)
「なぜ『イタリヤ組曲』とは言わないのか」
バッハ:パルティータ第5番&第6番(紙ジャケット仕様) (詳細)
グールド(グレン)(アーティスト), バッハ(作曲)
「なぜ『イタリヤ組曲』とは言わないのか」「グールドのファンには嬉しい商品である理由は、」
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集 Vol.7(第30~32番)(紙ジャケット仕様) (詳細)
グールド(グレン)(アーティスト), ベートーヴェン(作曲)
「天国的な第32番」
バッハ:イタリア協奏曲(紙ジャケット仕様) (詳細)
グールド(グレン)(アーティスト), バッハ(作曲)
「『ドロップアウト』以前」
ブラームス:間奏曲集(紙ジャケット仕様) (詳細)
グールド(グレン)(アーティスト), ブラームス(作曲)
「名盤!!」
チャーリー・ウィルソンズ・ウォー 上 (1) (ハヤカワ文庫 NF 334) (ハヤカワ文庫 NF 334) (詳細)
ジョージ・クライル(著), 真崎 義博(翻訳)
「「反共」の成功から9・11へ」
チャーリー・ウィルソンズ・ウォー 下 (3) (ハヤカワ文庫 NF 335) (ハヤカワ文庫 NF 335) (詳細)
ジョージ・クライル(著), 真崎 義博(翻訳)
バッハ:ピアノ協奏曲第5番/ベ (詳細)
グールド(グレン)(アーティスト), バッハ(作曲), ベートーヴェン(作曲), ゴルシュマン(ウラジミール)(指揮), コロンビア交響楽団(演奏)
「特にベートーヴェンのカデンツァが見事」
バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年デジタル録音) (詳細)
グールド(グレン)(アーティスト), バッハ(作曲)
「賢者の回答、泣けるアリア!」「この曲のアクシスを変えた」「バッハの楽譜と対話しているピアノが安らぎを与えるアルバムです」「グールドのバッハ」「グールドがこのテンポで弾いた訳」
Deutsche Harmonia Mundi: 50 Years (1958-2008) (詳細)
Frans Huijts(Baritone), Gordon Jones(Bass), Harry van der Kamp(Bass), Siegmund Nimsgern(Bass), Anner Bylsma(Cello), Hidemi Suzuki(Cello), Lidewy Scheifes(Cello), Nicholas Selo(Cello), Richte van der Meer(Cello), Anonymous(作曲), Giovanni Battista Degli Antoni(作曲), Emanuele d' Astorga(作曲), Johann Christoph Bach(作曲), Johann Michael Bach(作曲), Johann Sebastian Bach(作曲), Heinrich Ignaz Franz von Biber(作曲), Luigi Boccherini(作曲), Dietrich Buxtehude(作曲), Giulio Caccini(作曲), Francois Couperin(作曲)
「続いてレオンハルト・ボックスも発売決定!」「50周年記念ボックスを買いのがしても」
Zep Tepi, The Randy Weston African Rhythms Trio (詳細)
Randy Weston(アーティスト)
砂のクロニクル〈上〉 (新潮文庫) (詳細)
船戸 与一(著)
「卓越した世界観」「期待を裏切らない面白さ」「脱帽する」「中東に平和は訪れるのか」「これぞ冒険小説の醍醐味」
砂のクロニクル〈下〉 (新潮文庫) (詳細)
船戸 与一(著)
「さすがに凄い」
ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション (詳細)
アン・リー(監督), ヒース・レジャー(俳優), ジェイク・ギレンホール(俳優), アン・ハサウェイ(俳優), ミシェル・ウィリアムズ(俳優), ランディ・クエイド(俳優), リンダ・カーデリーニ(俳優), アニー・プルー(原著), ラリー・マクマートリー(脚本), ダイアナ・オサナ(脚本)
「I swear・・・」「イニスを演じたヒース・レジャーよ、安らかに。」「"i wish i knew how to quit you."」「人生の切なさといとおしさに泣けた」「ただただ泣きました」
クライマーズ・ハイ (文春文庫) (詳細)
横山 秀夫(著)
「短編もいいが、長編もすごい。」「命の重さと報道のあり方を問う本格社会派小説の真髄!」「素晴らしい作品です」「心拍数上昇」「一気呵成にせまる傑作!人生とはなにかを考えさせられる。」
クラシック 最新の名演名盤1001 (講談社プラスアルファ文庫) (詳細)
諸石 幸生(著)
モーツァルト:ディヴェルティメント集 (詳細)
コープマン(トン)(アーティスト), モーツァルト(作曲), アムステルダム・バロック管弦楽団(演奏)
「天国の音楽がここにある」「この曲集の決定盤!おすすめです!」「愉悦的なメロディと、古楽器の澄んだ音色が素晴らしい一枚です」「夕食のときにたまにはTVを消して」
ブロークバック・マウンテン (集英社文庫(海外)) (詳細)
E・アニー・プルー(著), 米塚 真治(翻訳)
「心から離れません」「プルーの声」「心に響く余韻は映画と同じ」「「愛の王国」という夢」「注・ただの同性愛ものではない!」
ヘンデル:リコーダー・ソナタ (詳細)
ペトリ(ミカラ)(アーティスト), ヘンデル(作曲), ジャレット(キース)(演奏)
「息がピッタリ」「リコーダ演奏のお師匠様、お手本ならこれです」「ヘンデルリコーダーソナタ」
クライム・ウェイヴ (文春文庫) (詳細)
ジェイムズ エルロイ(著), James Ellroy(原著), 田村 義進(翻訳)
りかさん (新潮文庫) (詳細)
梨木 香歩(著)
「人形(ひとがた)は、魂の鎮めどころだと実感させる」「おばあちゃんと孫娘」「女の子のお子さんのお持ちのかた、どうですか?^v^。」「穏やかな世界です」「清々しい読後感」
● Actor. ヒース・レジャー 08年1月22日 満28歳 制作中
● 今、読みたい本
● 『心』清浄器音楽
● 本とCD
● 独りの友
● クラシック ジャケ買い(グールド・ヌブー・クレーメル・・・)
● グールドの生涯
・「先入観念のないすばらしいヘンデル」
1993年9月ニューヨーク州立大学での録音。
ライナー・ノートの中でキース自身が書いているように、ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデルに対する多くのリスナーのイメージは管弦楽曲の作曲家のイメージだろう。それゆえにこの作品に入っているクラヴィーア曲の様な類いの曲は、同じ作曲家の作品でありながら正当に評価されていないと思われる。キースはこうした一度その人がなんらかの『大家』と認識されてしまうがためにできあがる固定観念がその人のそれ以外の作品を正当に評価できなくすると指摘している。これは多岐にわたって様々な変容を見せ、作品を創りだしてきた自分自身のことをも述べているのだと思う。
ヘンデルに対する固定観念と先入観念を捨て去り、このアルバムを聴けばヘンデルのクラヴィーア曲がいかにそれ自身で光を放っていて素晴らしいものかが理解できる。キースの並べた曲順は不思議にも新しいものから古いものへと並べられている。
『Up for it』で大賞を受賞したキース。しかしながらその固定観念を捨ててこのアルバムに対峙すれば、よりいっそうその才能に驚きを隠せません。
・「やわらかく、美しい音色」
クラシックのレコードは普段あまり聴かないし、買ってないのでほかの作品と比べることが出来ないのですが、この作品はいいですね。とてもやわらかく美しい音色です。 僕はあまりオーケストラの重厚な響きが好きではないのですが、このようにピアノだけのものを聴くと、とても聞きやすくメロディーもいいです。ぜひ聴いてみてください。
・「すばらしい透明な美しさ」
ヘンデルは個人的にはオルガン協奏曲を長年愛聴してきたが、ここにすばらしいヘンデル作品が加わった。ヘンデルの曲なのかキースの曲なのかわからないような見事な感性の融合。キースのピアノによりヘンデルの真価が現代に姿を現したといえるアルバム。必聴盤。
・「キースのクラシックに感じる音楽の喜び」
僕は家庭にクラシックが溢れていたのに、クラシックに安らぎを感じつつもロックやジャズに惹かれていく青年時代を過ごした。キースがクラシックを録音し始めた頃から、キースのクラシックを好きになった。ジャズでもバッハでも何でもキースのピアノは心地よかった。 ジャズ・マンのキースがクラシックを弾いているから面白いんだなと自分で勝手に思い込んでいたのだけれども、どうも違うということが分かってきた。このヘンデルには音楽の喜びというものが一杯詰まっている。クラシックとしてあるべきルールから離れて、ピアノを弾くという行為の喜びが溢れている。グールドなんかとも違う、一般的なクラシック・ピアニストにはない自由さと美しさがここにはある。 ジャンルに係わらず音楽というものは本来そういう根源的な魅力があるんだなと改めて思う。
・「キース・ジャレットがピアノで弾くヘンデル」
キース・ジャレットが、ヘンデルを演奏するこのCDを聴いて、その印象を一言で言い表そうとすると、それは「明晰」の一言である。ジャレットは、ヘンデルの音楽を演奏するにあたって、知的に隅々までその音楽を丹念に研究し、解釈した上で演奏している、ということが聴く者に伝わってくる。ヘンデルの音楽の面白さを再認識させられると同時に、ジャレットの頭の切れの鋭さに感服させられる一枚である。
・「グールド唯一のオルガン演奏」
1962年1月31日から2月21日録音。バッハの最晩年の曲『フーガの技法(1748年か1749年に作曲に着手、バッハは1750年に没している)』には指定楽器がない。指定楽器がないことからかグールドはこの曲だけなんとオルガンを選択する。使用されたオルガンはトロント市キングスウェイのオール・セインツ教会のもので、ケベック州サント・セサントのカサヴァン兄弟有限会社建造のものだった。このオルガンの特徴は教会堂の内陣の南面にむき出しになっているポジティブ・オルガンの部分にある。グールドのマイクのセッティングも相当に変わっていて、楽器の送風音をワザと拾うようにセッティングされている感じである。ピアノにおいても徹底して自分の好みのセッティングに変えてしまうグールドであるからしてパイプ・オルガンにおいてもしかりであるのは頷けるところだ。
全てを自らの思うままにして『オルガニスト』グールドはこの曲に立ち向かう。おそらくはグールドの数多いアルバムの中でも『怪演』の一つであるはずなのだが、聴きだすとその世界にすっかり入り込んでしまう自分を見つけてしまう。
こういうグールドもいいなぁ、と思う一枚である。
・「オルガンの演奏だけでは物足りなさを感じる。」
グールドによるバッハのフーガの技法のCDは、何故かオルガン演奏約30分にインヴェンションとシンフォニアを組み合わせた作品も発売されているが、本作はオルガン演奏30分だけを収録したもの。グールドの残した唯一のオルガン演奏を廉価・紙ジャケで入手できるのはよいことだが、ピアノ演奏によるフーガの技法の演奏を収録し、さらに1曲追加して総収録時間が本作の2倍を超す約69分の1997年発売版の方が、グールドによるフーガの技法の決定版としてお薦めです。未完のコントラプンクトゥス第14番でピアノ演奏が止まる瞬間が時空の深淵をのぞくようで壮絶で、それが聴けない本作は物足りなさを感じる。ただし、ジャケット写真は本作のものの方が好きですが。本作に関しては総合して星4個というのが私の評価です。
・「小品を光り輝かせる才能」
1979年10月10日、1980年1月10・11日、2月2日トロント、イートンズ・スタジオにて録音。ニューヨーク30thストリート・スタジオに次ぐ彼の根城である。
このアルバムにおさめられた曲はバッハの小品集とも言うべき作品だが、グールドはむしろこうした小品を光り輝かせる才能に長けていた。ケーテン時代の1720年頃のこれらの小品たちはグールドのピアノにより見事に磨かれ光り輝いている。
これらの曲はピアノのために作られたものではなく、クラーヴィア(チェンバロ)のための作品である。それをピアノの中でいかにバッハの意図を表現するかがグールドの生命線であった。そのために彼は多種多様なレコーディング・アプローチを繰り返し、多くの解釈を捨て去り残された1つの解釈としてアルバムを発表してきた。こういうピアニストは他にはいない。そしてバッハの奥の奥までレコーディングをしたピアニストもいないし、今後も登場しないだろう。
頭の中でシナプスが蠢き出し、ここは左手でこう弾いているな、ここは右手でこのタッチか、と両手が疼いてしまう演奏である。
・「なぜ『イタリヤ組曲』とは言わないのか」
パルティータ第一番・第二番が1959年、第三番が1962年、第四番は1963年、第五番・第六番は1957年に録音されている。つまりグールドは5→6→1→2→3→4の順に7年もの月日をかけて取り組んだ事を意味している。イギリス組曲などは1973年スタートの録音であるからして最初に手がけたかった作品が本作だったことも予想できる。
バッハは10才の時に両親を亡くしている。そして最初の妻、マリーア・バルバラにも先立たれる。そして1721年12月、15才年下のケーテンの宮廷歌手だったアンナ・マグダレーナと結婚する。おそらくは明るい家庭生活を取り戻してくれた若妻に感謝の気持ちでいっぱいだったに違いない。それが、バッハのイマジネーションに火をつける。イギリス組曲・フランス組曲・パルティータはいずれも新婚早々に妻のために書いた2冊の『アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集』に由来するからだ。
フランス組曲・イギリス組曲ときて、なぜイタリヤ組曲といかないのか、が不思議ではある。『パルティータ』とは舞曲の組曲のことだ。ちなみに『イタリヤ組曲』というのはイゴール・ストラビンスキーの作品にある。
グールドはこのバッハの妻への愛に満ちた作品をいつものようにとつとつと弾いて見せる。グールドはいつも一度に8時間録音していたそうだが1時間以上ピアノに向かっていることはなかったそうである。あとはただ再生テープを聴き、最良の自己表現たるテイクまで試行を続けるのだ。それがとつとつと弾いているように聴こえるというのも面白い。
・「なぜ『イタリヤ組曲』とは言わないのか」
パルティータ第一番・第二番が1959年、第三番が1962年、第四番は1963年、第五番・第六番は1957年に録音されている。つまりグールドは5→6→1→2→3→4の順に7年もの月日をかけて取り組んだ事を意味している。イギリス組曲などは1973年スタートの録音であるからして最初に手がけたかった作品が本作だったことも予想できる。
バッハは10才の時に両親を亡くしている。そして最初の妻、マリーア・バルバラにも先立たれる。そして1721年12月、15才年下のケーテンの宮廷歌手だったアンナ・マグダレーナと結婚する。おそらくは明るい家庭生活を取り戻してくれた若妻に感謝の気持ちでいっぱいだったに違いない。それが、バッハのイマジネーションに火をつける。イギリス組曲・フランス組曲・パルティータはいずれも新婚早々に妻のために書いた2冊の『アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集』に由来するからだ。
フランス組曲・イギリス組曲ときて、なぜイタリヤ組曲といかないのか、が不思議ではある。『パルティータ』とは舞曲の組曲のことだ。ちなみに『イタリヤ組曲』というのはイゴール・ストラビンスキーの作品にある。
グールドはこのバッハの妻への愛に満ちた作品をいつものようにとつとつと弾いて見せる。グールドはいつも一度に8時間録音していたそうだが1時間以上ピアノに向かっていることはなかったそうである。あとはただ再生テープを聴き、最良の自己表現たるテイクまで試行を続けるのだ。それがとつとつと弾いているように聴こえるというのも面白い。
・「グールドのファンには嬉しい商品である理由は、」
まず「紙ジャケ」が発売当時そのもののミニチュアであること。それを示すのは、曲目表記の誤り。すなわち、収録曲は「平均律第2巻より嬰ヘ短調のフーガ、ホ長調のフーガ」であるが、本商品のジャケットの裏、上方の両肩にいずれも「FUGUE IN F SHARP MINOR」とある。「FUGUE IN F SHARP MINOR」が二つ表記されているのは誤植である。その誤植は、発売当時のLP盤ジャケットの誤植そのままである。
2点目は、CDリマスター盤では「パルティータ5,6番」それぞれ、第1曲と終曲のみ、ステレオ録音である商品が出回っていたが、このエディションは、初出盤の通り、全曲モノラル録音に統一されている。それも発売当時に忠実である。
さらに、米国初出盤ジャケットに掲載の、アルヴィン・ボーマン(Alvin Bauman)による、優れたラーナーノーツの翻訳が添付されいていて、それを読めるのも嬉しい。
1957年録音。
限定盤なので早く買うべし。
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集 Vol.7(第30~32番)(紙ジャケット仕様)
・「天国的な第32番」
ご存知のように所謂『新約聖書』の最後の3曲である。実はこの録音はグールドを有名にしたあの最初のゴールドベルグ変奏曲の次にレコーディングされたものだ。それだけグールドはこの曲の解釈を世に早く問いたかったことを意味している。1956年5月17日から25日にかけてグールドの根城、ニューヨーク30丁目スタジオでの録音だ。
もう一人、早くからこのソナタ群( つまりは第28番に始まりあの長大なハンマークラーヴィアと天国的な第32番までの5曲)を世に問いたがっていたピアニストがいる。それは現代最高のヴィルトーゾ、マウリティオ・ポリーニだ。この演奏も凄い。この二つの演奏の聴き比べというのは何にも増して楽しい。
つまらないことかもしれないが昔、学生の頃の音楽の時間にこういう聴き比べを教えてくれる先生がいたなら随分音楽に対する考え方が変わったろうにな、と思うことがよくある。それだけ素晴らしい解釈論を比較するということは得難い経験だとも言える。そういう教育を何故しないのか、と思う。
ポリーニの第29番とグールドの第32番。いずれも屈指の名演だ。
・「『ドロップアウト』以前」
『イタリア・・』は1959年6月23-29日他録音。グールドが演奏会から『ドロップアウト』したのは1964年3月28日、シカゴでのリサイタルからである。かくて1982年10月4日の死の時までの18年間、彼はスタジオにとじこもり、自らの閉じた世界を構築していく。このアルバムは言ってみれば『ドロップアウト』前の貴重なレコーディングと言うことができる。特にイタリヤ協奏曲ヘ長調BWV971は、その明るさもあってグールドにピッタリな曲である。動いて動いてしかたがない十指がとめどなく突っ走り、聴く者のシナプスをざわざわと動かしてくれる。
パルティータ第一番・第二番が1959年、第三番が1962年、第四番は1963年、第五番・第六番は1957年に録音されている。つまりグールドは5→6→1→2→3→4の順に7年もの月日をかけて取り組んだ事を意味している。イギリス組曲などは1973年スタートの録音であるからして最初に手がけたかった作品が本作だったことも予想できる。
バッハは10才の時に両親を亡くしている。そして最初の妻、マリーア・バルバラにも先立たれる。そして1721年12月、15才年下のケーテンの宮廷歌手だったアンナ・マグダレーナと結婚する。おそらくは明るい家庭生活を取り戻してくれた若妻に感謝の気持ちでいっぱいだったに違いない。それが、バッハのイマジネーションに火をつける。イギリス組曲・フランス組曲・パルティータはいずれも新婚早々に妻のために書いた2冊の『アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集』に由来するからだ。
フランス組曲・イギリス組曲ときて、なぜイタリヤ組曲といかないのか、が不思議ではある。『パルティータ』とは舞曲の組曲のことだ。ちなみに『イタリヤ組曲』というのはイゴール・ストラビンスキーの作品にある。
グールドはこのバッハの妻への愛に満ちた作品をいつものようにとつとつと弾いて見せる。グールドはいつも一度に8時間録音していたそうだが1時間以上ピアノに向かっていることはなかったそうである。あとはただ再生テープを聴き、最良の自己表現たるテイクまで試行を続けるのだ。それがとつとつと弾いているように聴こえるというのも面白い。
・「名盤!!」
これがグールドの演奏?バッハの演奏とは全く違う叙情的でやさしい演奏にびっくりしました。私の一番好きなアルバムです。
●チャーリー・ウィルソンズ・ウォー 上 (1) (ハヤカワ文庫 NF 334) (ハヤカワ文庫 NF 334)
・「「反共」の成功から9・11へ」
非常に長い作品で、その間にCIAや政治の裏側の行動が延々と書かれています。 題材は、ソ連のアフガニスタンへの侵攻に対して、反共と言う事で、イスラムとアメリカが手を結ぶと言う今から考えると信じられない構図が描かれてゆきます。しかも、それにイスラエルやサウジアラビアまでもが参画すると言う不思議な世界です。 それを実現させたのが、チャーリー・ウィルソンと言うテキサス出身の連邦議会議員です。それを可能にしたのが、彼の資質を見込んで様々な人脈の形成に力を貸したジョアン・ヘリングという女性です。 これに、CIAのガスト・アブラコトスが絡んで、ソ連の崩壊の大きなきっかけとなったアフガン・プログラムが進行して行きます。
ただ、このプログラムで「反共」という意味では大きな成功を得るのですが、副産物として、イスラムの「ジハード」の意識、力を与えてしまいます。 それがやがてブーメランのように、それを助けたアメリカのもとに帰ってくるという皮肉を生みました。 このあたりのところは、下巻に「エピローグ」の形で丁寧に書かれています。長いこの作品の言いたいことは、この「エピローグ」がすべてのような気がします。それまでの世界の裏側の動きは、面白いのですが、序章にすぎないような気がします。
・「特にベートーヴェンのカデンツァが見事」
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番 Op.15が1958年4月29,30日 ニューヨーク、コロムビア30番街スタジオ、バッハ:ピアノ協奏曲第5番 BWV 1056が、1958年5月1日 ニューヨーク、コロムビア30番街スタジオで録音。グールドの6枚目のアルバム。グールドは3枚目のアルバムとしてバーンスタインとベートーヴェンの第2番協奏曲とバッハの第1番協奏曲をレコーディングしているのでいずれもそれに次ぐ第2弾となる。
ここでの指揮はヴラディーミル・ゴルシュマン。目立たないがグールドとの相性は極めて良く、彼とのコンチェルトは傑作揃いだ。グールドの感性が彼の指揮を通じてオーケストラにも乗り移っているのがこのアルバムを聴くとよく分かる。特にベートーヴェンのコンチェルトでは目立たないこの作品を見事に燦めかせていて、第3楽章のカデンツァはことのほか素晴らしい。バッハの方も名演で、1972年に映画化されたカート・ボネガット・ジュニアの傑作『スローターハウス5』の中でグールドはこの第5番を使用しているのでおそらく最も納得がいった演奏だったのだろう。特に、第2楽章のラルゴは絶品だ。
・「賢者の回答、泣けるアリア!」
55年版が超爽快な超々名演なら、この81年版はグールドの人生最後の回答でしょう。第30変奏におけるどうしようもない気分の高揚感は他の誰からも得られません。そして、続く最後のアリアは心を掴んで離さない。人生の最後にして、始まりへと回帰するような、これ以上慈しむことなど考えられないような愛情すら感じさせる。私はいつもは55年版を聴きますが、”どうしても”というときは81年版を聴きます。どちらもグールドであり、どちらも正しい。グールドの演奏の聴ける時代に生まれてよかったと心から思える究極の演奏。
・「この曲のアクシスを変えた」
販売当初(20年以上昔)のインパクトは凄かった。当時バロック音楽は古楽演奏がメジャーになりだした頃で、世話になっておいて悪いが、イ・ムジチやミュンヒンガーやパイヤールなんかは、全部詰らなく思えてきた頃で、まして、「ピアノで弾くバッハなんか」っていう感じだった。石丸電気の2号館でクラシックの階へ足を運んだ時、耳にしたのがこの演奏。当時何処の誰かも知らないままにすかさず買った。で、やがてCDになってからも買い揃えた。繰り返し部分は省略されているが長大な全曲を、一気呵成に弾き込んで、聴き手に時間を忘れさせ、外に出て歩いても、かすかに頭の中で鳴り出す、という小林秀雄まがいの怪しい体験までしてしまった。幾種類ものチェンバロの演奏を聞いていた筈なのに、それらは、当分聞くことはなくなってしまった。本当の「古楽演奏」とは、グールドの演奏かもしれない。ところで、グールドは何度かこの曲を演奏しているが、55年の最初の録音より、この盤のインパクトは凄かった。というより、この盤が話題になってから、逆に「思い出された」感じ。この盤は55年盤よりポリフォニックな面がかなり強く出ている。凄まじいスピード感と音符の一音一音が浮かび上がるかのような両手の力は神業で、同曲のみならず、ほかの多くのピアノ演奏を、過去のものへと追いやった感じさえした。ほかにザルツブルク音楽祭のライブ盤があるが、それはこの演奏と、55年盤の中間のような気がする。
・「バッハの楽譜と対話しているピアノが安らぎを与えるアルバムです」
81年録音の、グールド2回目の「ゴールドベルク変奏曲」です。1回目の55年録音のアルバムでデビューし、当アルバム録音の翌年、50歳の若さで急死してしまったことは、何かの因縁でしょうか。当アルバムですが、まるで生き急ぐかのような急テンポの55年盤に比べると、バッハの楽譜を慈しみ、対話するようなテンポになっています。ただ、その1音1音がはっきりと聞こえる滑らかなピアノは、得もいわれぬ安らぎを感じさせてくれます。55年盤と比べ、どちらが良いと云々するよりは、両方を揃え、その時の気分で、盤を変えたい、「バッハ弾きグールド」による名演奏です。
・「グールドのバッハ」
グールドのバッハは何か違う。バッハの譜面にのって演奏しているというよりも、グールドのオリジナルに聞こえてくる。神がかり的名演と思います。小生が自分の世界に入り込んで集中したい時に聞く名盤です。
・「グールドがこのテンポで弾いた訳」
グレンのゴールドベルク変奏曲は新録音(1981年)が旧録音(1955年)に比べてテンポが遅く、それに文句をつけている人もいるようですが、グレン自身旧録音を気に入ってはいなかったようです。その訳は、グレンの興味は対位法(作曲法の一つ)にあり、それをシッカリ聴かせたいので新録音のテンポを遅くしたと、彼自身が語っています。自分が聴き比べると、やはり新録音の方が落ち着いて聴けるし、バッハの書いた音符の一つ一つをジックリ聴いている気持ちもします。新録音と旧録音の共通点として、グレンのピアノタッチがまったく同じ事が挙げられます。テクニックが衰えたわけではないのです。やはり、ゴールドベルク変奏曲のどちらをまず買えばいいかというと、新録音の方が断然お勧めです。グレンが辿り着いた新境地を堪能できます。
●Deutsche Harmonia Mundi: 50 Years (1958-2008)
・「続いてレオンハルト・ボックスも発売決定!」
2008年発売されたばかり、ドイツ・ハルモニア・ムンディ社創立50周年記念ボックス、50周年にあわせてCD50枚組、早々に売り切れのショップ・サイトもおおいコスト・パフォーマンス抜群のお買い得セット、一瞬錯覚かと思うほどの廉価、売っている場所により価格差がかなりあります、いずれにしても1枚1枚聞くも良し、CDチェンジャーにまとめて挿入して流しっぱなしにするも良し、無くならないうちに入手したほうが賢明でしょう、
・「50周年記念ボックスを買いのがしても」
古楽のリリースで定評のあるハルモニア・ムンディの50周年記念ボックスですが、今までの 定番を含み、新たな新譜もありかなりお買い得だと思います。 売り切れになっても、この様に増版するのかそれだけの価値があるからなのでしょうね。
CD1枚がちゃんとした完結編で、中途半端な寄せ集めではありません。 新旧含めた選曲もすばらしく、特に古楽を楽しむには最適な選集です。 もちろん、ハルモニア・ムンディは古楽のみでなく聖歌から現代音楽、ピリオドもモダンもありますからそれらも含んでいます。 それらを14のカテゴリーに別けて収録されています。 古楽のみでないというのも特徴の一つです(でも古楽が一番しっくりとすると思いますが)。
・「卓越した世界観」
この本でクルド人という民族を知り、中東情勢に興味を持つようになった。同じ地球上とは思えないような、過酷な世界の中で生きる事を宿命付けられた民族のドラマ。その中で彷徨する巡礼者という意味の名前を持つ二人の日本人。熱く、激しいドラマはやがて破滅的な終焉をむかえる。しかし人間たちのドラマも、彼らが信じる神々も、所詮は巨大な大地が創られた歴史の中ではほんの点でしかない。やがては全ては砂の中に埋もれていく。日本人離れした世界観の傑作。果たして船戸与一はこれを超える作品を書けるのだろうか?期待はしているが、難しいだろうなあ・・・
・「期待を裏切らない面白さ」
色々な意味で面白い。ハードボイルドな味わいもあり、心に迫る美しい描写・活写も多い。大袈裟に言えば、叙情的また叙事的な美しさというところか。登場人物の個性も魅力的。ただし、著者のいくつかの作品の特徴ではあるが、多少の歴史的背景を知っているとなお面白さが増すかも。歴史小説的なものもあるのでしょうね。これを勧めてくれた友人は少々マニアックな部分(銃などの武器関係の描写)について話していた。いろんな部分で楽しめるのか?とにかく、読んでみてくださいな。上下巻で結構分厚いが、長さを感じさせない。読み終わったときには心地良い脱力感があるでしょう。
・「脱帽する」
自分で言うのも恥ずかしいが、僕は国際社会に広く関心を持っている。そんな僕にとって、船戸与一氏は先生か、或はそれ以上の存在である。つまり、僕は氏のことをとても尊敬しているのだ。今から三年ほど前、僕が中学三年の時に始めて船戸与一氏の作品「血と夢」に出会って以来、今までに全作品とは言わないまでも、多くの作品を読んできた。
その中で、僕が最も衝撃を受けた作品が、「砂のクロニクル」である。この作品は、パーレヴィ政権が崩壊した後のイランを舞台に暗躍する二人の日本人を主人公に添え、イラン秘密警察内部の抗争やクルド人による独立運動などが躍動感溢れる筆致で描かれている。船戸氏の作品に共通して存在する、綿密な取材に裏打ちされたリアリティーは、遠い僻地で行われている紛争を現実的かつ衝撃的に僕の目の前に突きつけてくる。その衝撃が、特にこの「砂のクロニクル」においては強烈だった。丁寧な人物・情景描写によって、作品に臨場感が生み出され、僕は読み進めて行く内にまるで自分がイランという行ったこともない国に立っているような錯覚を覚えた。魅力的な登場人物達のキャラクターによって、自ずと感情移入させられてしまう。引き付けられていると言うより、気付いたら感情が高ぶっている感覚だ。しかし、登場人物それぞれが胸に秘めた強い思いを最後に爆発させ、激しい戦闘の後、静かで儚い結末が訪れた時、僕は独りだけ取り残されてしまったような空虚感、そしてそれに相反する満足感が胸に押し寄せるのを感じた。フィクションとは解っていながら、過酷な状況の中で力強く存在する登場人物達の精神的な強靭さに、僕は脱帽せざるを得なかった。僕とは次元の違う世界で生きている人間達がいる。一人の人間として、彼らがどれだけ僕より強いか、親父に強く頭を殴られて思い知らされた気分だ。
現在、中東は世界中の関心を集めている。しかし、僕達は、テレビを始めとするメディアの映像によって、その問題を表面的に理解しているに過ぎない。勿論、テレビで放送される映像は殆どの場合事実であり、小説というフィクションとは違う次元に存在する。しかし僕は、あえて主張したい。「砂のクロニクル」は一読に値する。この作品から得るものは非常に大きいはずだ。独り善がりかもしれないが、作品の登場人物達に感情移入し、内部から中東という地域を眺めた時、映像から得る以上の衝撃が心を打つはずである。
・「中東に平和は訪れるのか」
船戸与一の作品を初めて読んだ。一世代前の冒険小説の最高傑作といえる出来栄えだと思う。主人公達の視点が各章ごとに入れ替わり、イスラム革命後のイランの情勢を様々な立場から描写していく。主人公達は宗教・民族・金儲け等の己の目的に殉ずるために激情に駆られ、怜悧に判断し、苦悩しながら闘いの中で命を削っていく。国際紛争の主な火種は国家×宗教×民族の数だけある。例えば中東のような複雑な場所では人間の数だけ紛争の火種があるといっても過言ではないだろう。この作品はフィクションであり、全く現実ではないと思うが、中東の平和は単純な善悪論では解決しないことが改めて良くわかった。住んでいる人たちだけではなく欧米や旧ソ連諸国の思惑まで絡んでくるのだから、一体どうすれば良いのだ?ただ主人公達は、命をかけた目的を持っている。生きている間に哀しみは絶えず、非業の最期に倒れても、精一杯生きた事だけは誇りに思っているだろう。近年のノワールとよばれる作品の主人公達は自分の中のどす黒い欲望だけに忠実だ。物質面では豊かでも、むしろそれゆえに凄惨な生き様だ。人間が存在する限り、血を流すのは避けられないことなのか。もちろんこの小説はエンタテインメントだ。今まで書いてきたようなことを一切抜きにして熱い想いのぶつかり合いに心動かされるのも悪くない。真性正統派冒険小説である。ちょっと厚いけど。
・「これぞ冒険小説の醍醐味」
読み始めたらやめられない!血湧き肉躍るとはこのことか!登場人物もことごとく死に絶える。ハリウッド映画なんて目じゃない!読みなさい。
・「さすがに凄い」
船戸作品を初めて読んだが、描写がすごい。まるで太いノミでくっきりとえぐったようなビジュアルな描写である。クルドの街の描写などもノンフィクションに照らし合わせると正確なのがわかる。はらはらどきどきのサスペンスもあり。クルド民族に小説の形で正確な光を当てたことも高く評価していいのではないだろうか。主人公のような日本人がいるとは、あまり思えないが。
・「I swear・・・」
劇場には5回通った。上映が続いていればまだまだ通っただろう。回数を重ねるほどに、涙をおさえることができなかった。
・「イニスを演じたヒース・レジャーよ、安らかに。」
便乗だなんだと思われても構いません。書かずにはいられない。オレの誕生日でもあった2008年1月22日、イニスを演じたヒース・レジャーが急死した。まだ28歳の若さだった。彼には進行中の作品がいくつもあり、加えてはじめての長編監督デビューも予定されていた(ジョーカーを演じ、すでに撮影を完了した『バットマン ビギンズ』の続編“The Dark Knight”が、どうやら遺作ということになりそうだ)。本作でも最高の演技をみせ、今後、年齢を重ねると共に、さらにすばらしい俳優に成長するだろうと思っていたのに。せつない、あまりにもせつなすぎる“男泣き系映画”の傑作でもある本作に、こんな後日談が待っていようとは思いもしなかった。実生活でも婚約し、娘さんも授かったが、少し前に破局したというアルマ役のミシェル・ウィリアムズ、ジャックを演じたジェイク・ギレンホール(本作の撮影を通し、ヒースとは大の親友になった)、ラリーン役のアン・ハサウェイ、そしてもちろんアン・リー監督も、ショックを受けていることだろう。特典ディスク―コンテンツやボリュームには不満が残るが、内容そのものはまずまず―に収められた、オフショットやインタビューの断片も、今ではとても貴重なものになってしまった。
もちろん、監督・脚色・作曲の3部門で受賞できたことはすばらしいが、この作品はオレに「もしそれが『いい映画だ』と思ったなら、アカデミー賞なんて関係ないね」ということを教えてくれた佳作である。そしてきっと、あなたの《心の宝物》になる、そんな作品だと思う。吹替版音声も、よくできている。イニスを演じたヒースに想いをはせながら、どうかじっくりとごらんいただきたい。
・「"i wish i knew how to quit you."」
「ニューヨーカー」に原作短篇が掲載されてから8年。幻の傑作と評判の脚本がようやく最適な監督の手で最良のキャストによって映画化され、05年の米で最も語られ、多くの観客を何度も劇場に向かわせた最も心に取り憑いた作品になったこと自体、奇跡でなくて何だろう。ほんの少し何かが狂っただけで無残な失敗に終わったはずで、そもそも全く日の目を見ない可能性さえあったのだ。さらに、未だにこの問題を冷静に受け止めず狭量な偏見丸出しで攻撃する人々が多くいる現実からも、この映画が語られる意味がわかるだろう。ある米のレビュアーは書いていた。「結婚して家庭を持つ男たちが、自分の本当の気持ちを決して表に出せずに、映画を見ながら『これは自分の物語だ』と思っていることを、いったい何人の者に想像できるだろう?彼らの妻達は、今まさに隣で起こっていることだとは夢にも思わず、自分とは無関係の物語として見るに違いない。もしかしたら『なんて可哀想な話なの』なんて感想を本人に漏らしつつ」。2人がゲイでないならという仮定は無意味だし、これはただ感動的にするために与えられた悲劇の恋物語などではなく、ある人々にとっては未だに痛いほどの現実なのだ。もっとも、監督が込めたのはそんな社会的メッセージではない。壮大な自然の中、ennisを完璧に体現したHLを初め俳優たちの演技は信じられないほど素晴らしく、無意味な映像やセリフは一切ない。だから人は彼らの20年を自分の中に再構築し、まるでその人生を共に生きたかのように彼らの苦悩を本物だと信じることが出来るのだ。本当は何の情報も先入観も持たず豊かなイメージに身を委ねてほしい。「ゲイのカウボーイの物語」という乱暴な括りに収まらない素晴らしい映像体験になるはずだから(もし共感できなくても自分の人生に重ねて何かを感じるはずだから)。これは言葉ではなく行間の映像で語り、彼らの人生を体験させる映画なのだ。
・「人生の切なさといとおしさに泣けた」
間違いなく私の人生ベストワンの映画。これまでも、そしてこれからも。それほどこの作品が与えてくれた感動は深く、他に例を見ない類のものだった。イニスとジャックの運命について繰り返し繰り返し考え続けて、いつまでも後を引くのだ。過去のトラウマに縛られて、ジャックへの愛を認めることができないまま、彼の死後にやっとそのことに気付くイニスと、どんなに求めても決して報われない愛に焦がれ続け、無残な死に方をしたジャック。片道14時間の距離をものともせずに、20年もの間ひそかに育み続けた愛。未来もなく、生み出すものもなく、何の希望もなくても諦めることができなかった行き場のない愛。こんなひたむきで絶望的で混じり気のない愛のかたちを描いた物語は初めてだった。同性愛であろうと、不倫であろうと、ここまで真剣に愛に向き合って生きている二人を、私は非難したり嘲弄したりすることはできない。ただただ圧倒され、心にしみてくる感動に身を任せるしかなかった。すばらしい脚本、原作者、監督、そして俳優陣に大きな拍手を送りたい。
・「ただただ泣きました」
何故こんなにも泣けるのだろう?胸が、締め付けられるのだろう?悲恋物語だからだろうか?DVDの特典のリー監督のインタビューで分かりました。それは、この物語が、手の届かないロマンだからでは、ないでしょうか?そして、誰にでもある戻りたいところ=ブロークバックマウンテン。・・・、でも決して手に出来ない。だから見終わった後、こんなにも切ないんだ。イニスと牧場を一緒にやるジャックの見果てぬ夢に泣きました。ラスト近く、イニスとジャックの妻ラリーンが、電話越しの会話で、「青い鳥が、歌う桃源郷が、本当にあったのね」と言い、イニスが、「遥か昔の夏、あの山で二人で過ごしまた」と言った時、意外にもこの女性が、二人を一番理解したんじゃないでしょうか?イニスの言葉に涙が、溢れそうになるラリーン。その涙を見て、わたしは、また、泣きました。
・「短編もいいが、長編もすごい。」
横山作品の大半のベースにあるのは、よい意味での「おじさん視点」。がむしゃらな若い時期を過ぎ、それなりの社会的地位(でも超エリートではない)を得た一方で、理想と現実、あるいは組織と個人の狭間で悩む大人を描かせたら右に出るものは無い。
日航の墜落事故後の報道を題材に、人物の心理と葛藤を丁寧に描いた本作、ハッピーエンドではないけれども、説得力があり、納得の行く筋運びと相まって、読み応えあり。主人公は欠点も多いが、理想も忘れてはいない中年の新聞記者。組織に翻弄され悩むさまは、同じ社会人として共感を覚えます。
著者には珍しい長編作品ということもあり、横山作品に興味があるならば絶対に読む価値のある力作。
・「命の重さと報道のあり方を問う本格社会派小説の真髄!」
本作品は横山秀夫の18番ではない。1985年の御巣鷹での飛行機墜落事故の全権デスクを任された男、悠木和雅をめぐる「事件記者ドラマ」ともいうべき大作である。帯には「心を揺さぶる横山秀夫の最高峰」という表題が付されている。本当にそうか、読んで確かめてみる必要があった。途中で、「これが最高傑作?読むのやめようか」と躊躇った。しかし最後まで読むしかないと思い直した。正解だった。ぐんぐん内容の濃さが増してゆく。全権デスクとしての誇り・苦悩・苛立ちといった、さまざまな人間の内面心理の克明な描写が、「自分がデスクにでもなった」気分へとテンションを高めてゆく。後半の読書スピードは速かった。飛行機墜落原因のスクープを突き止めながらもその掲載を見送り、他社に抜かれた時の失望感と後悔の念、時折挿入される友人の息子との臨場感溢れる登山状況とそこでの会話、墜落事件を社会面トップで扱い続けてきた悠木の前に現れた女子大生の生々しい言葉「人の命って、大きい命と小さい命があるんですね」(406頁)など、十分に読み応えがあり、そして読者であるわれわれに真っ向から問いかけてくる「命の重さ」と「報道というもののあり方」。かつて上毛新聞記者であった作者ならではの切実な問題意識に違いない。全権デスクによる、「どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中に押し付けてきた」(410頁)という心の呟きは、作者自身が直面した状況を端的に述べた言葉ではないかと思うのだ。本書には余計な講釈は必要ない。深い感銘を受ける傑作(いや最高傑作とみなしてよい)である。多くの方が「読了」することを切望する次第だ。「クライマーズ・ハイ。一心に上を見上げ、脇目も振らずにただひたすら登り続ける。そんな一生を送れたらいいと思うようになった」(462頁)という文章で本文を締めくくりたい。
・「素晴らしい作品です」
実際に起きた1985年の日航機墜落事故をベースにしており、当時事故現場の地方新聞記者であった筆者がその経験も踏まえて、筆者の分身とも言える新聞記者が主人公です。
この作品の素晴らしいところは、各人の人間臭さだと思います。新聞社の日常はわかりませんが、未曾有の大事故をものにするために奔走し、争い、そして時間とも闘い、そんな姿が生々しく臨場感・現実味を増しているのだと思います。そして最後におそらく筆者が伝えたかった、ごく当たり前のことを再認識させられました(読んでいる間に新聞記者目線になってまして。。)。
本当に素晴らしい作品です。
・「心拍数上昇」
読み始めたら止まらなくなって、一気に読んでしまいました。それくらい迫力ある男のドラマです。頁をめくる毎に心拍数が上昇するのを感じました。読後、本作が『幻の直木賞受賞作』と言われる所以を知ってますます感動致しました。日航機事故を知らない世代の方達にも是非読んで頂きたいです。
・「一気呵成にせまる傑作!人生とはなにかを考えさせられる。」
この小説が出たとき、作者の横山秀夫が当時実際に御巣鷹山の事故現場を取材したと聞いて読むのを躊躇っていた。おぞましい大惨事の現場を見る勇気がなかったのだ。 しかし、この小説には、作者が実際には見たであろう生々しい現場の様子がほとんど描かれていない。それを伝えるのが目的ではないからだ。 報道という「大義」の影に隠れたマスコミ社会の内実と浅ましくも愚かな人間社会通して、その中で生きる人間の苦悩する心の葛藤を描いている。 「下りるために登るんさ」という謎めいた言葉と共に、「一心に脇目も振らずに登り続ける・・・クライマーズ・ハイ」と対比させ、人生とは何かを示唆している。 最後の場面、悪く言えば「けれんみ」たっぷりであるが、素直に泣けてくるところが横山秀夫の魅力だろう。お勧めです。
・「天国の音楽がここにある」
魂が洗われるような美しさ。K136の第2楽章など、涙が出るほど胸を打つ。というより、なぜかはわからないが、涙を流さずにはいられない。天国で音楽が奏でられているとしたら、きっとこんな音楽なのではないだろうか、とイメージされる。ジャケットの解説にもあるとおり、アイネ・クライネは聞かれすぎて、新鮮さが失われてしまった感があるが、この演奏はそんな印象を払拭してくれた。間違いなく、名盤のひとつだ。
・「この曲集の決定盤!おすすめです!」
古楽器の透明で軽やかで、なおかつ渋い響きが満喫できます。私の所有するディヴェルティメント集K.136~138のCDはこのコープマン盤だけです。これ1枚だけで十分満足できるすばらしい演奏なので、他の録音は買おうと思ったことがありません。自信を持っておすすめできます。
・「愉悦的なメロディと、古楽器の澄んだ音色が素晴らしい一枚です」
古楽器の鬼才、コープマン指揮による89年録音のアルバムです。ディベルティメントには、もともと、「楽しみ、レクリエーション」といった意味があるそうで、身構えて聞く音楽ではありませんが、モーツァルトの創る、何とも、愉悦的なメロディによって、本当に、聞いているだけで、楽しくなる楽曲です。そこに輪をかけているのが、アムステルダムバロック管弦楽団の古楽器の音色。他のレビュアーも仰っているように、天国ではこんな音が流れているのではと思わせる澄んだ音色で、この愉悦的なメロディを、より、素晴らしい、爽やかなものにしています。朝の通勤時、あるいは読書時等、聞くだけで、爽やかな気分にさせてくれる一枚です。
・「夕食のときにたまにはTVを消して」
もともとディベルティメントはイタリア語で娯楽とか気晴らしを意味するそうだ。かしこまって聴くよりは夕食でもとりながら楽しむのがいいのかもしれない。たまにはテレビ(の音)を消してモーツァルトのディベルティメントでも聞きながら食事をしよう。
コープマンの演奏は古楽器でありながら黴臭い感じはなく、軽やかで明るい。仕事のストレスも癒される。しかしそれでいてどこかしら悲しいのは何故だろう?次第に泣きたい気分になってくる。不思議だ。
とりあえずモーツァルトのディベルティメントのCDで何を買ったらいいか迷っているのならこのCDをお勧めします。
・「心から離れません」
映画館を出た後、1週間ほどこの映画のことが頭から離れませんでした。その後原作も読みましたが、あれだけの薄っぺらい本の中で淡々と事実をただ語っているだけのような語り口でここまで人の心に取り付いて離れないアニー・プルーの小説に、言葉で表現できないそれこそ「心を持って行かれた」ような状態に陥ってしまいました。一体何なのでしょうか。この物語が読む人、観る人をここまで引き付けて話さない力というものは。。。
人は皆誰もが心に「もし帰れるならあの時に...あの場所に...」と思う時間や場所を持っていると思います。この物語の主人公であるEnnisとJackにとってそれが二人が最初の夏を過ごしたブロークバックマウンテンであり、その場所でのその時の思い出は彼らのその後の決して幸せとは言えない人生の中の決して忘れることの出来ないかけがえのないものとなります。その後20年間彼らはその思いを貫くことになりますが、貫くと言うよりむしろ出来れば断ち切ってしまいたいのにそうすることが出来たら本当に楽になれるのに、それが出来ない。そしてそのまま彼らの思いは続いていきます。お互いに自分が本当に愛している人間が誰であるのか分かっていながら、二人で生きることを決意することが許されない社会の中で仮面をかぶって生き続けていくこと人生がどれほど辛いものか...Jackの方はそれでもEnnisと共に生きていくことを選ぼうとしますが、Ennisにはどうしてもその勇気を持つことが出来ません。そんなEnnisをJackは最後に「一度だけ言う」と言って責めるのですが、目の前で涙を見せながらJackの存在があるから今の自分はこんな腑抜けのようになってしまっているのだ、と訴えるEnnisをJackは抱き締めます。結局どうするこもできないことが彼らにはわかっているのです。この場面での原作の文章が私の心に強く打ちました。(私は英語で読みました。)「何も解決せず、始まることも終わることもない」まま彼らはそれぞれの人生へと帰っていきます。そしてその後に悲劇は起こります。
この映画を観終わった時、そして本を読み終えた時、改めて人は失って初めてその失ってしまったものの大切さを知るのだ、と思いました。そしてどれだけ深く嘆き悲しんでももうそのことを取り戻すことは出来ないのです。そしてそれでもなお人生は続いていきます。どれだけ辛くてもその思いを抱えながら人生は続いていくのです。そう思った時、今の自分が当たり前にとってしまっている自分を取り巻く環境や人を大切にしなければいけない、と思うと同時に、人は生きれば生きるほど、切なさというものを積み重ねていくのではないか、と恐れにも似たような感情が私の中に起こりました。
最後に...でもやはりこれほどまでに人を愛し、愛される機会に巡りあった主人公達を(フィクションだとはわかっていますが)幸せであったのではないか、と思うのです。
・「プルーの声」
「ゲイのカウボーイの物語」と乱暴な要約で称される映画の原作として読むと、想像とのギャップに驚くだろう。米の60年代、ストーンウォール事件を通過し人権運動の時代を駆け抜けながらも、ゲイという言葉すら知りそうもない中西部を舞台に、甘い感傷やロマンティシズムとは一切無縁に語られるからだ。さらに、アカデミー作品賞大本命の呼び声も高い感動的映画(各映画賞総なめの評価や米で起こった論争を考えれば、もし受賞がなくても単に協会の保守性が露呈するだけだろう)の評判を聞き、映画が映し出す同性愛以上に普遍的なテーマ、つまり自分を偽り激しい自己否定の中で掴めたはずの真実さえ失ってしまった男の喪失感と深い悲しみを求めても、安易な癒しや許しは与えられない。プルーの言葉は驚くほど武骨かつ容赦なく現実の厳しさを突きつけるのだ。彼らには愛の言葉も与えられない。なぜならその愛はその場所では名前さえ持たなかったから(同性愛は「あえてその名を語らない愛」と呼ばれた、どんな異性愛がこれほどの自己否定を強いるだろう?異性愛者にその苦悩がわかるだろうか?)。とはいえ、彼らのせいいっぱいの愛情表現を見よ(セリフが本当に素晴らしいので、できれば原書で読んでほしい)。何の飾りもない直情的な言葉の生々しい痛み、圧倒的な背景として語られるワイオミングの荒々しい自然の中、ゴツゴツと語られる物語がこれほど胸を打つのはなぜだろう。すぐには消化できず何度も原書を読んだものだが、その度にすべての言葉がほとんど完璧に思えたものだった。限度があることも確かだが、日本語訳でもプルーの声をなるべく忠実に残そうという試みがされていることに感謝したい。映画の味わいも小説とは違うものだが、監督・脚本・キャスト・撮影・音楽のすべてにおいて想像しうる限り最良の映画化だと言えるだろう。何しろほんの数十ページが贅沢にも2時間以上の映画になったのだから。
・「心に響く余韻は映画と同じ」
映画にあまりにも感動し、翌日に書店を捜し回って購入。30ページしかない短篇はあっと言う間に読み終えた。そこに描かれていたジャックとイニスの世界は、余計なものがすべて削ぎ落とされ、選びぬかれた言葉で紡がれていたせいか、映画よりストレートで荒削りな印象を受けた。主人公の二人も、映画で彼らを演じた俳優たちのような魅力的なハンサムとは書かれていないし。…しかし、一読した後にいつまでも残る切ない余韻、日を追うごとに押し寄せてくる不思議な感動は、映画を観て感じたものと全く一緒だった。 映画のDVDも、何度も何度も観て、台詞や俳優の表情を覚えてしまったものだが、この原作本も、カバンに入れて持ち歩き、好きな箇所は暗唱できるくらい繰り返し味わいながら読んでいる。 イニスとジャックの間に交わされる会話は、何の飾り気もない無骨そのものの言葉だけど、飾らない言葉だからこそ、よけい魂にずしりと響く。二人が四年後に再会し、情熱的に抱擁するシーンや、最後の逢瀬での、血を吐くような哀しい諍いのシーンは、映画でも特に心をわしづかみにされたけど、これらのシーンは、原作の文章もまた、すばらしいのである。荒々しくて骨張っているけど、心に直にたたみかけてくるような表現の数々には圧倒される。そしてその反面、女性ならではの繊細な感性の光る表現が、宝石のようにほどよくちりばめられている。一番好きなのは、あの有名なまどろみの抱擁のシーン。映画の映像もよかったが、台詞がないシーンなので、ここだけは、原作の方が美しさも切なさも際立っている。ジャックがこの静かな抱擁を、なぜいつまでも忘れることができなかったのか、原作にはこのうえなく美しい言葉で綴られているのだ。とにかく名作。映画のお陰でこの短篇に出会えて幸せだ。
・「「愛の王国」という夢」
本国アメリカで限定公開から出発、拡大ロードショー、大ヒット、各賞総ナメという幸福な映画作品となった『ブロークバックマウンテン』の原作本。一時間もあれば読めるような短編だが、描かれている世界の空気と自然、年月の長さ故に叙事詩的な広がりを感じさせる作品だ。語り口の美しさが秀逸。ブロークバックマウンテンという山の仕事で偶然知り合った少年と青年の狭間にいる十代の男の子二人。山の空気と星の天幕に包まれ衝動的に抱き合った二人が、生涯その「愛の幸福感」に苦しめられる。原作者が女性であることは注目に値する、ように思う。主人公二人は「女が愛しむ男」そのままだ。二人とも無学で、言葉の人間ではない。言葉の人間ではないということは、都会の人間ではないということだ。都会の人間ではないということは、思想の人間ではないことだ。屁理屈がない彼らは無防備である。彼らは都会の「ゲイカルチャー」の中に紛れ込むことを思いつかないし、自分たちを守る為の理論武装からも遥かに遠い。田舎で、愛の記憶ばかりを持て余して途方に暮れ、世界の中で丸裸で立ち竦む。彼らが生涯かけて「還りたい」と希求するのは「天と地で我ら二人しかいない世界=ブロークバックマウンテン」であり、愛の王国なのだ。こんな希求を抱く人間が俗世で幸福になる筈はない。とてもとても可哀相な話だ。彼らは不器用で、俗物ではない。浮気者でもない。ゲイ向けのハッテン場に通ったりもしない。愛だけの男二人なんである。こんな男性像を説得力を持って提示されたら、オンナは堪らん、という訳で、原作も映画も主にオンナを泣かせてしまった。個人的には、この話、現実の「ゲイのセクシュアリティ」とはあまり関係がないようにも思った。「ここじゃない何処か」という悲哀は人間普遍の物語ですね。
・「注・ただの同性愛ものではない!」
私は、この原作本を読んで、ぜひ映画のほうも見てみてほしいと思っている。この作品を評価する人たちは「読んでいるうちに涙が止まらなくなった」というのを聞いていたが、私はその反対で、人間描写や彼らをとりまく社会的背景などがリアルすぎて、小説なのに気付くと一つの事実として読んでいた。だから、行き場のない愛の形を目の前にして、心の深いところでズシンとした衝撃を受けた作品だった。 原作は最後に「自分で解決できないなら、それは我慢するしかないのだ」という言葉で締めくくられている。これは、この小説に登場するイニスとジャックの愛についてばかりではなく、彼らをとりまく人々の人生についても言えることだと思う。もちろん、私たちの人生においても・・・。 私は、イニスとジャックの間にある愛をただの同性愛とは思えない。性は関係なく、魂で惹かれあった二人なのではないかと思う。そんな相手となら肉体的な関係に陥るのも至極自然なことではないだろうか。二人の切なさや、互いを思い募る愛しさは、ストレートに心に響くはずだ。
・「息がピッタリ」
1990年6月1-3日ニュージャージー、オックスフォードで録音。RCA盤だがなんとプロデューサーはマンフレート・アイヒャーである。((*_*)驚き)
ミカラ・ペトリとキース・ジャレットの息がピッタリでやや速めのヘンデルのソナタはとっても素敵な空間をあっという間に作り出す。個人的には最初のソナタト短調の演奏が気に入っている。デミタス・カップにひきたてのコーヒーを煎れ、アンテイックなパイン・テーブルで素敵な彼女とふたりで聴きたいアルバムだ。
なお、キースは本作ではハープシコードを弾いている。
・「リコーダ演奏のお師匠様、お手本ならこれです」
自分でリコーダ演奏を趣味にされるかたにお勧め。最近ではチェンバロ伴奏CDを製作してくれるサイトも大阪にあったりし、リコーダの独奏演奏はブームになりつつあるようですが、かくいう僕もそうなのです。ですが地方にいる人間にとってはそのお師匠さんさがしは大変なものです。ミカラペトリは世界最高峰に君臨する女性ソリストですがチェンバロを伴奏にしてのこの演奏は絶好の夢前案内人になりますのでお勧めします。
・「ヘンデルリコーダーソナタ」
ジャズの天才、キースジャレットのチェンバロでのバロック通奏低音、自由で生き生きして感動的。ペトリのリコーダーも知的にインタープレイ、装飾、アドリブで答える。
・「人形(ひとがた)は、魂の鎮めどころだと実感させる」
表紙に惹かれて手に取る人がいるかもしれない。また、「りかさん」って変な題名だなあと思って、手に取る人もいるかもしれない。私はそうでした。そして、この本が梨木果歩との最初の出会いになりました。もう何年も前、児童文学図書館で手にしたその当時、読書療法の勉強をしていた私は、ものすごいショックを受けました。 日本人の作家でこんな世界を書く人がいるなんてって。ホラーでもゴシックでもなく、きちんと魂の世界に向き合って、個人の魂の歴史も、家族の歴史も、民族の歴史さえも書き込める人がいるなんてと驚いたのです。それが、子どもの心に恐怖を与えるかどうか、ある意味微妙な世界のぎりぎりのところを描いているので、(影響力のある本は、読んだ後、内的なエネルギーを意外なところで噴出させるので)安易なファンタジーとして、甘く見る事ができない作品です。 今の子どもが失くしかけている心の世界、人と人との結びつき、自分のルーツ、ご先祖様の存在、日々の営みを重ねる大切さ、格式、因果、業(ごう)というものを無視して生きる事ができないということを、主人公の祖母と人形のりかさんは、淡々と教えてくれます。 生きざまや信念の確かな人の存在(モデル・守護者)と、人の魂の鎮めどころとしての存在(心の鏡・お守り)の両方を必要とする子供の成長を改めて考えさせてくれると共に、大人になった今もその必要性を感じます。また、この本を手にした子どもがもう少し大きくなったら、ぜひ「からくりからくさ」を読んで欲しいと思います。
・「おばあちゃんと孫娘」
梨木香歩さんは、おばあちゃんと孫娘ものを書かせたら天下一品というか、本当にすごいです。「西の魔女が死んだ」もすばらしかったですが、この物語にはまた、違う形の感動がありました。
私は亡くなった祖母と折り合いが悪かったのですが、「死」の時点から経過していく時間は故人の思い出を浄化する働きがあるのかもしれません。
梨木さんの物語を読むとそんなやさしい気持ちの自分がいることに気付かされます。止まるこのとない時間と、受け継がれていく想い。そんなテーマがさりげなく編み込まれ、つづられた物語です。「からくりからくさ」との関連はありますがこの本だけでも、十分だと思います。ためしにこの物語を読んでみてください。
・「女の子のお子さんのお持ちのかた、どうですか?^v^。」
梨木果歩さんの作品は1冊1冊が神秘的で、小学校のうちの子にはなあ〜?ってもしかしたら感じてるママさんっていませんか?1つには、文庫本サイズでしかないこと。でも、内容もある。この『りかさん』は、ハード本サイズで薄さも文字の大きさもちょうどいい。「ひなまつり」の時期も近いですし、これどう?ってまずはプレゼントしてみてはどうですか?小学校中学年からあじわえる作品だと思います。1度、文庫本をかりたり、買うたりして、読んでみて、なんかいいかもな〜と感じたら、ぜひぜひと思います。私は、学校の図書館に寄贈しました(まだ、書庫に眠ってるのですが、来年度からの披露なので。)それをめざとく見つけた子どもが、「それみして〜。なー、読みたあ〜い。」と。題名からもなにかしら感じるものがあるのでしょうかね〜?(笑)。「4月になったら新刊でーす!!^^ておいてもらえるでな〜。」いうたら、「うん!」というてました。女の子、女性、彼女をもつ彼氏、奥様を思うけど、なんだか愛情がうまくだせない旦那さま、いろ〜んな方にたのしんでもらえそうな気がします。でも、小学校中学年から『いける!!』と思います^v^v。うん。
・「穏やかな世界です」
おばあちゃんに「リカちゃん人形をほしい」とねだった結果やってきたのが市松人形りかさん……なんて面白い設定なの。くすくす笑える面白さを期待して読み始めたところ、あっという間に終盤。ついには滂沱たる涙を流しっぱなしに黙々と読みふけってしまった作品です。
人形はヒトの心をぼんやり蓄えるもの。だから例えば、たくさん愛された輝くような青い目の人形は、その愛で胸をいっぱいに満たし、その幸福を伝えるためにやってきました。だけれど時代の流れが邪魔をして………。
「りかさん」は、主人公ようこと人形のりかさんの紐解いていく、優しい筆致でつづられた人形たちの物語で構成されており、その中で割合、残酷なように思われる青い目の彼女の物語に特に心惹かれました。あからさまなその悲劇も、やはり優しく描かれています。そしてその優しさが、静かに涙を誘うのです。
・「清々しい読後感」
『西の魔女が死んだ』で梨木さんの感性に共感&感動して、手に取った2冊目の『りかさん』。ぐいぐい引き込まれて一気読みしてしまいました!
人形と人間が心を通わせるというメルヘンチックな設定と随所に盛り込まれた梨木さんの人生哲学が上手く織り合って、とてもさわやかな読後感を味わわせてもらいました。
様々な人形達の物語が、りかさん・ようこ・おばあちゃんの3人の手によって柔らかく解きほぐされていく・・・
ビスクドールの語る悲しいお話・・・りかさんに「あなたは言いたいんでしょ」と促されてビスクドールが、ためらいながら囁いた言葉。思わず知らず、涙がブワァ~っと溢れてしまいました。
アメリカから親善大使として贈られて来た人形アビゲイルを愛慕していた女の子・・・教師の命令で人形を刺さなければならなかった彼女は、人形と一緒に自分の柔らかな心も刺し殺してしまった・・・戦争とは、様々な形で人々に酷いことを強いるものなのですね。
人形の役目について、ようこに語ったおばあちゃんの言葉・・・人形遊びをしないで大きくなった女の子は、疳が強すぎて自分でも大変。積み重ねて来た、強すぎる思いが、その女の人を蝕んで行く。・・・
人形と女の子って切っても切れない関係なのかも知れませんね。
そして、文庫本のために書き下ろされた「ミケルの庭」成人した、ようこと仲間達の物語。40ページちょっとの短編ながら、梨木さんの研ぎ澄まされた感性が光る秀作です。
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