ハツカネズミと人間 (新潮文庫) (詳細)
ジョン スタインベック(著), John Steinbeck(原著), 大浦 暁生(翻訳)
「「生き方」を考えてしまいます。」「ふたりなら、きっと何でもできたハズ」「星10個つけたいくらい」「大切なものを守るということ」「Sad in a good way.」
武器よさらば (新潮文庫) (詳細)
アーネスト ヘミングウェイ(著), Ernest Hemingway(原著), 高見 浩(翻訳)
「キャサリンの幻影と雨」「高校生諸君、ぜひこれを今読んで、そして25年後にもう一度読んでみてください。」
八月の光 (新潮文庫) (詳細)
フォークナー(著)
「衝撃的なモダニズムの芸術品」「米南部の光が突き刺す「複数性」」「読むほどに厚くなる作品」「名!」「読み始めたら長さを感じさせない名作」
ナイン・ストーリーズ (新潮文庫) (詳細)
サリンジャー(著)
「よくわからないけど惹かれる」「サリンジャー・ワールド」「不思議と心に残る」「読めば読むほど味が出る。」「9つの物語」
グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー) (詳細)
スコット フィッツジェラルド(著), Francis Scott Fitzgerald(原著), 村上 春樹(翻訳), 村上春樹(著)
「内容よりも雰囲気を訳した作品」「傑作!」「最高の曲を、天才がアレンジした音楽」「素晴らしいかもしれない」「フィッツジェラルドの世界を破たんなく日本語で再構築してくれました、という印象」
● 新潮文庫(海外)
● 丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士「文学全集を立ちあげる」アメリカ編その1
● 読み返す小説
● スタインベック
● ドリフター(ズ)
● 愛おしきものたち
● ヘミングウェイ
● 読んだよ。
● 買う予定の本
● 眠れない夜に
・「「生き方」を考えてしまいます。」
比較的短い小説ですが、心に残ります。アメリカを底辺で支える労働者たち。財産も、愛する人も、愛してくれる人もいない。長時間の過酷な労働に疲れ果てて眠るだけの日々。作者のスタインベックは、そんな救いの無い人々に温かいまなざしを向けています。中心となる二人の労働者、ジョージとレニーは、お互いに自分には無いものを相手に感じ、認め合って、一緒に夢を持って生きていこうとします。周りを取り巻く人々の告白には、人の哀しみがあふれていて、そして言葉を持たない動物も、この小説の中で人間の化身のような役割を果たしています。社会から忘れ去られている人々をとおして、人間らしく生きるとはどういうことなのか、を問われているような気がしました。
・「ふたりなら、きっと何でもできたハズ」
からだは大きいが、気が小さくて記憶力の悪いレニーと、そんなレニーの面倒をいつも見ている、口は悪いが懐の深い小柄な男ジョージ。自分の土地もなく、農場から農場へ働きながら渡り歩く生活をしているが、ふたりには夢がある。小さいながらに土地を手に入れ、ふたりで静かに暮らす夢。小金を稼いで飲み代に使ってしまうような、他の奴らとは違う。だって、レニーにはジョージがいて、ジョージにはレニーがいるから…。
スタインベック作品の中でも大好きなストーリーのひとつ。でこぼこコンビのジョージとレニーの友情と、一生懸命なのに上手くいかない現実。ただ幸せになりたくて、本当にそれだけだったはずなのに、穏やかに生きることのむずかしさ。せつなくて、読むたびに胸をギュッとつかまれたような感覚に襲われる。幸せと友情について考えさせられる一冊。
・「星10個つけたいくらい」
それまで、英語をただ勉強するためだけに英文を読んでいた私の、固い固い心の扉をぶちこわした本です。 言葉はちがっても、同じ心を持っているなんて、頭の中で考えていただけで、英語を話している人間を実は内心全然別の人間だと考えていた私のおそれを、スタインベックの筆はぶちこわしてしまいました。
登場人物一人一人の、気持ちが胸に響いて、悲しくて涙がとまりませんでした。ストーリーは単純ですが、とにかく一つ一つの文章が心に響いてきます。すばらしい本です。
・「大切なものを守るということ」
レニーとジョージ。絵に描いたように対照的な二人が、事あるごとに語り、語らせる、小さく幸福な夢。それは夢とも呼べない程にささやかな望みだった。子守唄か寝物語のように、幾度と無く繰り返される「夢」。それを語る二人の思いの違いが切なく浮かび上がる。子供のようなレニーの、その無邪気さこそが、いつか命取りになることをジョージは恐れ、そして知っていた。果たして悪夢は現実となり、レニーへの愛情ゆえにジョージが下す決断はあまりに哀しく、やるせなさが込み上げてくる。
「怒りの葡萄」とは一味違う魅力に溢れる作品。スタインベックの作品の持つ空気と、現在のアメリカの印象との差を考えて見るのも面白い。
・「Sad in a good way.」
Have you ever felt so sad and so emotionally shocked after reading a book that you just had to remain silent until your heart settled down? Well, that is how this book will make you feel. After reading this book, I just had to close the book and stare out the window and say nothing. It took me a few long minutes to recover. I don't want to give out any details of the story but I just want to say that I wish there was better way to end this story. I innocently wish that this story led to a happy ending. But maybe, it was a perfect ending.
・「キャサリンの幻影と雨」
主人公フレドリックとキャサリンの出会いと恋愛を軸に「生と死」を見事に描いている。文章が簡潔にテンポよく進むのが印象的だ。日本人には書けない作品。真似をしようにもへミングウェイみたいな生き方がダイレクトに反映された本作のような作品は無理だ。
印象的なのは「雨」だ。キャサリンは雨を恐れる。それは「雨に打たれて死んでいる自分が見えるから・・・」
僕は本作のラストに出てくる雨ほど悲しい雨を知らない。
・「高校生諸君、ぜひこれを今読んで、そして25年後にもう一度読んでみてください。」
第一次大戦下、アメリカ人フレドリックはイタリア軍で傷病兵搬送任務にあたっていた。彼は戦地で出会ったイギリス人看護師キャサリンと恋に落ちる。凄惨な戦争のもとでも彼女との日々に癒されるフレドリック。しかし戦況は厳しく、ドイツ軍の大攻勢のためイタリア軍は敗走をよぎなくされる。そのさなか、フレドリックは戦線を離脱してキャサリンのもとへ帰ることを決意し…。
今から四半世紀も前の高校時代、大久保康雄の翻訳で「武器よさらば」を読んだことがあります。若い二人が理不尽な戦争によって翻弄されていく悲しい物語に心揺さぶれたことをよく憶えています。 私が好きな高見浩の手でこの物語が新たに訳し直されたと知り、もう一度二人の運命と伴走してみることにしました。
死と隣り合わせの日々に熱を帯びる若い男女が、高校生であった私の目には憧憬の対象として映ったものです。故郷である地方都市以外で暮らした経験のない私が、自分の人生ではなくこうした小説の中にしかまだ見出すことのできない、波乱に満ちた物語に憧れを持つのは無理からぬことでした。
あれから幾星霜。人生を歩んできた末に今回再読して印象に残ったのは、少し別の側面でした。 本書124頁で、フレドリックは会話をかわした従軍神父がいつの日か故郷のアブルッツィに帰ることを静かに祈ります。町はずれを流れる小川。そこに棲む鱒。涼しい夏の宵。栗林を縫って行なわれる秋の狩り。一緒に昼食をとる地元の農夫たち…。彼はそんな様子を思い描きながら眠りにつきます。 そう、なんてことはない、波乱とは縁遠い村の日々には、戦争のない幸せがある。しかし変哲のない生活にありがたみを感じることのできる平和が今は遠のいてしまっている。そのことを描く、とても美しいこの場面を私は幾度も読み返しました。 この場面に胸打たれる私が25年後の今ここにいる。そのことを感慨深く思った読書です。
・「衝撃的なモダニズムの芸術品」
十九世紀に文学という芸術は完成されたといわれ、それを受けた二十世紀の作家たちは、それぞれに新しい時代の新しい文学を生み出そうと奮闘しました。こういった二十世紀の新たな文学の流れのことをモダニズムと呼ばれ、ジョイスやプルースト、そしてフォークナーなどがその代表的な作家です。
作品全体に渡り、複数のエピソードを一見不規則ながらに併置する技法(Collage技法)を取り、リーナ、クリスマス、バイロン、ブラウン、ハイタワー、ジョアンナなどの、それぞれの登場人物の濃密なる過去に踏み入ってゆき、気付けば最終的にそれら一見不規則に思えたそれぞれのエピソードが、互いに交錯し合い、かなり絶妙なバランスで成り立っていることに驚かされます。そうすることで、序盤では不可解に思われた謎が徐々に解けてゆき、同時に作品の内容としてはどんどん殺伐としてカオスな世界に突入してゆきます。その他、「思考の流れ」を太字で示すなど、まさにモダニズム的なアトラクションに満ちた作品です。
私見では、主人公はリーナでもクリスマスでもなく、主な登場人物みんなであると思います。それぞれの個としての宇宙が互いに交錯し合い、この『八月の光』という独立小宇宙を形成しており、登場人物の誰が欠けても作品の成立は不可能でしょう。しかしながら、その中でもやはり最も闇が濃く、印象に深いのは、クリスマスです。「自分が白人か黒人か一生分からない」という、アメリカ人にとっては決定的な、アイデンティティーが滅却された状態こそが、彼をあのような状態に陥らせてしまったのでしょうが、中盤から後半にかけての彼の悲惨な描写こそ、読者は注意して読み解くべきです。そのクリスマスの印象があまりにディープであるのと逆に、元気溌剌としている冒頭部と最終部のリーナの描写には、陰鬱なる闇を大きく優しく抱擁する燦々たる太陽のような、凄くハッピーな救いを感じました。メルヴィルの『白鯨』や、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』でもそうでしたが、このリーナの大きな距離の移動ということに、アメリカという国のスケールの大きさ、如いてはアメリカ文学たる所以を感じました。また、一見すると素朴な善人であるかに映るバイロンの、打算を含んだエゴイズムがハイタワーによって見破られ、表現されているところなどにも、フォークナーの表現者としての鋭さを感じました。時折見られるアメリカン・ジョークのような表現も居心地がよく、「ああ、結局、僕はアメリカ文学が好きなんだな」と、本書を読んで確信しました。
フォークナーは「Lost Generation」の作家であり、一応この作品ではハイタワーが元牧師という設定ではありますが、やはり作品を通して、キリスト教による救いという描写は殆ど見られず、頽廃した世界観が描かれていました。これはそのまま当時の、戦争の衝撃によって、神による救いを求められない、精神的に荒廃した時代性ゆえでしょう。いずれにせよ、かなりの衝撃作に出会えて何よりです。日本人作家でも影響を受けている人が、かなりいるように思えます。フォークナーと同時代の作家では、日本ではヘミングウェイやフィッツジェラルドの方が俄然有名ですが、力量としてはフォークナーは恐らく彼ら二人以上のポテンシャルを秘めているのでは、と感じました。ドストエフスキー的な魔的な吸引力がある作家です。
余談ですが、私はこの作品を、青春18切符で日本海や瀬戸内海を廻りながら、五日間で半分(300ページ)ほど読み進めました。その後何日間かで読了しましたが、「私、もうアラバマまで来たんだわ」というリーナの言葉で始まり終わるこの作品の暗示の通り、惹き込まれるプロットで、「僕はもう最後まで読んできたのか」と思うほどに、通常読書スピードが遅い自分でも、一気呵成に作品を読むことが出来ました。それと、旅しながらの読書は、文字通り、八月の光と田舎の風景に、作品の情景がシンクロして、非常に良かったです。八月にこそ、読まれるべき作品のような気がします。
・「米南部の光が突き刺す「複数性」」
大前提として,主人公はほとんどのページを割く男性ではなく,初めに登場する女性であることを確かめたい。その上で,女性の単数性と男性の複数性とが層となり,この小説は展開される。
物語全体を覆う複数性は,時間,空間,人物(性別,年齢,心理,職業など)の基本に,差別‐被差別や貧富が加わる。これらを一手に引き受けている男性は,作中で徹底的にその複数性を歪めていく。生い立ちから結末に至るまで,ひたすらに歪める。その歪みを,米南部という舞台が大きな役割を担い支える。
その歪んだ複数性を,純粋な単数性(≠単純)が包み込む。そのため,主人公はあくまでこの女性なのだ。彼女の時間軸,空間の動き,関わりのある人物は,彼女にとっては一様である。対して男性のそれらは,歪みを持つがゆえ一様たりえない。歪んだ複数性とは,自己分裂とも表現できよう。
「圧巻」とは,まさにこの作品のためにあると言っても過言ではない。米南部の『八月の光』は,その男にとっては烈火のごとく,彼を焼き尽くす。その尋常でない光の下では同時に,永遠に変わることのない人がいる。また反対に,その光に耐えられず社会とのずれを持つ人がいる。その光の注がれる町を,主人公の女性が訪れやがて去っていく。
・「読むほどに厚くなる作品」
この「八月の光」の最大の魅力はズレである。 登場人物の背景、関係、心理、時間、内なる現実、構成どれもこれもが微妙にズレている。そして、それらが物語の 中心を作るのを拒否している。多種多様な視点は物語の安定をも拒否する。さらに過去-現在-未来の時間軸を難なく 歪めたフォ-クナ-の技術には圧倒された。
・「名!」
名著者。名作。名装丁。そして村上春樹著「ノルウェイの森」での名紹介(かな?!)。ノルウェイの森を何年かぶりに読み返していくつかの名作品が登場してくるので購入しました。かつて大学生のころろはノルウィイの森を読んでも他の登場作品に関心が行かなかったのにいまこうして読むのはナゼだろうか?と自分が不思議になります。この八月の光の32版を持っていますが、その装丁写真が素晴らしいのも気に入りました。分厚い部類に入る本書ですが、サンクチュアリと同時に購入してサンクチュアリから読みました。それでフォークナー的なリズムをつかめて良かったと思います。分厚くても内容が濃いので夜中も寝ずに読め、結果的には他の本よりも早くに完読出来ました。アメリカ南部の難しい街・ミシシッピーのことは映画にもよく題材にされていて違和感はなかったです。もし時間がある方なら快読して文句ない作品です。
・「読み始めたら長さを感じさせない名作」
昔から作品の存在は知りながらも、文庫版で600ページを超える長さと、「人間の疎外と孤立を扱った象徴的な作品」などと紹介される(文庫裏表紙)敷居の高さに尻込みしていた小説だったのだが、長さを感じさせない展開で面白く読み終えた。犯罪者となるジョーの話だけだとやりきれなさばかりが残るのだが、並行して語られるお腹の子の父親を探しにきたリーナの明るさにさわやかな読後感が得られる。なぞめいた登場人物たちの持つ過去が徐々に明らかになっていく語り口も飽きさせない。星が4つなのは、回想と現実が入り組んでいてややわかりにくいため。
・「よくわからないけど惹かれる」
『ライ麦畑でつかまえて』で有名なサリンジャーの作品を初めて読みました。さて、この『ナイン・ストーリーズ』はタイトル通り9編の短編を集めた短編集なのですが、正直言って何を描こうとしているのか私にはよく理解できないものも多かったです。でも、どの作品も不思議と心に引っ掛かりました。意味はわからないけれども決して眠くはならず、逆に妙に覚醒感を感じさせる作品群だと感じました。
この短編群の主人公たちは、精神がどこか壊れているような人達です。しかし、よく考えてみれば普通の人間というのは誰もがこんな非合理な一面を持っているものです。むしろ、一般の小説の登場人物たちというものが、あまりに単純化され、物語の中のある役割を担う為だけに創造された不自然な存在なのだということに気づかされました。
・「サリンジャー・ワールド」
サリンジャーの別著にも登場する人物たちのストーリーです。時代設定が少し古いので、ちょっとレトロな雰囲気もかもしだしていて、サリンジャー・ワールドを満喫できます。登場する若い男女は、現在のアメリカでのヤッピーの元祖ともいえ、会話がとてもしゃれていたり、生活振りもスタイルがあって、魅力的です。サバサバした文体でありながら、登場人物の微妙な気持ちがすんなりと伝わってきます。9つのショートストーリーなので、休日や勉強の合間の気分転換にぴったりです。ゆっくり味わって読みたいストーリーなので、通勤時間に読んだりするのはもったいない程です。
・「不思議と心に残る」
なんてことないストーリーなのに不思議と心に残る。「ライ麦」もそうだが、この短編集でもそんなサリンジャーの特徴がよく表れてます。この人の場合、何が言いたいのかはあまり重要ではなく、心の機微の描写に読み手がうっすらとでも共感できればそれでいいような気がする。
よく読むと、作者はさりげないようで注意深くストーリーの動きと心の動きを計算し組み立てながら、心のプチ・クライマックスへと持っていってるのがわかる。だから何度読んでも飽きない、それどころか読めば読むほど読み手の心にじんわりしみわたってくるのだと思う。
・「読めば読むほど味が出る。」
実は吉田秋生のマンガ「バナナフィッシュ」で知って、初めて読んだのですが、9つの短編はどれもアイロニーに満ちていて、全体的に悲しみが流れているのだけど、暖かい作品です。その絶妙なバランスが心地良いです。特に最後の『テディ』と言う作品が、無常のように淡々としていて好きです。旅行する時には絶対に持って行く本の一冊です。
・「9つの物語」
あとがきで訳者の野崎氏が言及されているように、この短編集では多くの子供たちが登場する。そして、僕は、サリンジャーは子供という存在を描くのが抜群に上手いと思う。サリンジャーの描く子供、それは、ただ幼く無垢なだけの存在ではない。幼いながらも、そこに大人顔負けの哲学性を持った存在として描かれている。でも、それを幻想的だとは思うけど、虚構だとは思わない。というより、思わせないリアリティがサリンジャーの小説にはある。また、サリンジャーはあたかも絵を描くかのように、小説を書く人だと思う。そう感じてしまうのは、場面転換の描写があまりないせいだと思うけど、それでよけいに幻想的に思えてしまう。今はもう隠遁してしまっているようですが(シド・バレットみたいにいきなり訃報が届くのはやめてくれ!)、どうかもう一度筆をとってほしいものです。
・「内容よりも雰囲気を訳した作品」
私は現在アメリカのロスアンゼルスの高校三年生ですが、此処では「グレート・ギャツビー」は必修科目です。高校三年の英文学のカリキュラムはアメリカ文学史。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、スタインベックと進んでいきますが、その中でも一番重点を置かれるのがこの「グレート・ギャツビー」。私が村上訳を読もうと思ったきっかけは、私の英語の先生が「日本で有名な作家のムラカミという人がギャツビーを訳したが、それはとてもいい訳だとウォールストリート・ジャーナルで読んだ。是非読んでみないか?」と進めてきたからです。
三島由紀夫を英語で読んでもいまいちなように、フィッツジェラルドを日本語で読むなんて!と最初はあまり乗り気ではありませんでしたが、「ノルウェイの森」や「海辺のカフカ」など他の村上さんの作品は愛読していたので、「まったくイメージが違ったとしても、『村上の作品』として読めばいいかな」と思って注文し、読んで見ることにしました。
原文でかなりの衝撃を受けた私ですが、この訳にはさらなる衝撃を受けたといわざるを得ません。訳が見事なのはもちろんですが、あらゆるギャツビー関連のエッセイを授業で読んだ上で、なんともいえない解釈の深さに驚きました。言語が違ってしまうと醸し出す雰囲気も当たり前のように変わるものですが、村上さんの描くギャツビーは、まさしく僕のイメージのギャツビー、いや、アメリカで学ぶフィッツジェラルドの描こうとしたギャツビーそのものなのです。
ただ単に、筋が通るように語句を並べて訳しているのではなく、フィッツジェラルドの原文に等しい「雰囲気」を作り出すように丁寧に言葉を選んでいるのが伝わってきます。もちろん数箇所は「ここは(作り出す雰囲気が)原文の通りじゃないな?」とか「あれ、此処は意味が隠れているはずなのにな?」と思うところもありますが、それ以外は「もしかしてフィッツジェラルドって日本語も書けたのかい?」と思わず唸ってしまうほどの出来です。
ヘミングウェイやカフカの和訳でよく見られるように、訳された作品には「内容」を重んじたものが多いです。つまり、同じストーリーは伝わるのですが、そこから感じられるイメージ、雰囲気、感情の揺らぎなどはなかなか伝わりません。和訳を読んでから原文を読んだり、その逆をしたりすると「あれ?このキャラクターってこんな風に思っていたんだ」と驚いてしまうことが多いです。
しかしこのギャツビー、全てのキャラクターが、原文と同じように考え、行動し、会話や動きからは原文と同じ雰囲気を作り出してくれます。これはもう、神業です。かなりのギャツビーファンとして、映画版も何バージョンか観ましたが、それよりもこちらのほうがより正しく、よりフィッツジェラルドらしいムードを作り上げてくれます。
原文を読んだことある方も、「いい作品と聞いていたけど、結局は訳だからなぁ……」と悩んでいる方にも、是非是非お勧めです。
唯一気になる点は、「Gatsby」は「ギャツビー」ではなくずっと「ギャッツビー」だと思っていたところですかね。人によって発音は違うみたいです。アメリカでは後者が主流。(笑
以上、文学ヲタによるレビューでしたっ。
・「傑作!」
語り部である"私"が、はじめてギャツビーを見かけるところ。夏の夜、海の入り江の向こう岸に向かってギャツビーが手を広げて震えている場面。"私"は、彼が見ている方向を見ても、一つの小さな緑色の光が見えるだけで他には何もなかったという下り。素晴らしく印象的で、ギャツビーの性格、そしてフィッツジェラルドという作家の本質を良く表していると思います。失ったものを取り返そうとする焦燥感。上辺だけの嘘。空虚な人間関係。無気力さ。悪。そして激しい恋心。そういった要素が浮かんでは消え、気怠く展開していくこの話を何回読んだのかな。Matthew J. Bruccoliが序文を付けたこの版では、何バージョンかある原稿の中から、フィッツジェラルド自身が最終原稿としてまとめたもの。つまり、彼自身原稿を何度も何度も書き直しているということであり、この本こそ彼の最終原稿であるという訳です。フィッツジェラルドの著作の中では、構成力と登場人物の性格づけという意味においても最高傑作かと思います。大推薦!
・「最高の曲を、天才がアレンジした音楽」
言わずと知れた、村上春樹さんによる翻訳の話題作です。村上さんは、これまでにも様々な海外小説(特にアメリカ小説)を翻訳なさって、紹介されていると言うことです。僕はハルキストといかないまでも、村上さんの小説は大好きで、沢山読んでいましたが、正直翻訳された小説は読まないできました。というのは、村上春樹はオリジナルの小説家であって、人の小説を訳すサブの仕事(翻訳者の皆様すみませんm(__)m)には向かないのではないか、村上春樹が訳せばどんな作品も村上節(?)になってしまい、原作を楽しむといった意味では、プロの翻訳家の方のものを読んだほうがいいのではないか、と勝手な独り決めをしていたからです。それでも今回「グレートギャツビー」を読むにあたって、村上訳を選んだのは、同じく村上訳で先行して話題となっていた「キャッチャーインザライ」の訳業より本作のほうが評価が高かったようだからです。(「キャッチャー…」は「これは原書とは違う、村上作品である」との評が目立ちました。)
・「素晴らしいかもしれない」
野崎訳の同書を読んで、なんとなくその素晴らしさをわずかに感じていました。でも、それがどういうことなのか分からない。フィッツジェラルドの来し方に触れるものであるということは間違いない。でも、そこに何があったのだろう?そう思って野崎訳を数回読んだものです。 そして、今回村上春樹訳の本書が出るということで期待して読みました。前々から、村上さんは「グレート・ギャツビー」を翻訳したいと色々な場で言ってましたし、「ノルウェイの森」にも出てきました。それを知っていたので、「いよいよ来たか」という感じでした。 読んだ感想としては野崎訳とは違うものでした。とにかく読みやすい。意外に古い作品なんだってことを再認識させてくれました。今まで、そう思わせなかったのは野崎孝という翻訳家の才能によるものでしょう。 ニック・キャラウェイの立ち位置、ジェイ・ギャツビーの悲哀、すべてが解けるように僕には感じられました。そういうことだったのか・・・と。 同時に野崎訳とのズレもあります。それは致し方ないことです。英語で書かれた文章を完璧に移し変えることなんて不可能なんです。しかも、時代も違う。それに耐えうる作品が名作として残るんですよ。 「グレート・ギャツビー」は劇的な感想は抱けないものだと思います。しかし、じわじわとくる印象があります。読者が経験することによって、「こういうことだったのか」という不思議なシンパシーめいたものを感じることの出来る作品だと思います。想像以上に深い作品だなと改めて思い知りました。 でも、この作品の本質というか、全体的な「これはこういうことだ!」という感想が抱けないんですよね。これは決して悪いことではありません。逆に可能性を感じるくらいです。それは作者、訳者の責任ではなく、読者の責任でしょう。 この作品をちゃんと理解できるようになりたいです。
・「フィッツジェラルドの世界を破たんなく日本語で再構築してくれました、という印象」
デイジーの従兄弟でありギャツビーとの仲を取り持つことになるニックというのは、村上春樹さんの小説の主人公のようでしたね。というか、もちろんニックのような男性を日本にもってきて書いたのが村上作品なのかもしれませんが。こんなところに、その感じが出ていると思います。
《人は誰しも自分のことを何かひとつくらいは美徳を備えた存在であると考えるものだ。そして僕の場合はこうだー世間には正直な人間はほとんど見当たらないが、僕はその数少ないうちの一人だ》(p.113)。《人間の同情心には限界がある。都市の明かりが背後に遠ざかるにつれ、彼らのあいだで交わされた壮絶なやりとりもだだん遠いものになっていったし、そのことで僕らは正直なところほっとしていた。三十歳ーそれが約束するのはこれからの孤独な十年間だ。交際する独身の友人のリストは短いものになっていくだろう。情熱を詰めた書類鞄は次第に薄くなり、髪だって乏しくなっていくだろう》(p.247)。 ぼくの読み方が悪いのかもしれませんが、ほのめかしに終わっているウルフシャイムとギャツビーが手がけるううさんくさい仕事について、もう少し、ハッキリとわかるようだったらいいな、と思ったのが多少、不満に残りました。
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